イスラーム以前
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メッカの町は古くより存在し、2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオスの「地理学」にはマコラバの名ですでに記載がある。このマコラバという名称の由来は神殿を意味するミクラーブという語であるとされており、このころからすでにメッカはカアバ神殿の置かれた聖域であったと考えられている。メッカはジュルフム族が聖地の守護者として支配していたが、4世紀後半にはイエメンから移住してきたフザーア族がメッカを侵攻して支配権を奪取した。5世紀末には、メッカ周辺で遊牧生活を行っていたクライシュ族のクサイイがフザーハ族首長の娘婿となり、フザーハ族に代わりクライシュ族がメッカの支配権を握るようになった。その後クライシュ族は、インド洋航路によってアジアからイエメンへと運ばれる香辛料などをシリア、地中海地方へと運ぶ交易路を開拓して大規模なキャラバンによる遠隔地交易を始め、隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の諸勢力との間に盟約を結んでいき、メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった。ムハンマドが生まれた570年ごろにはおよそ1万人の定住者人口を持ち、まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、商業都市として、また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった。 そのムハンマドが生まれたとされる570年ごろにメッカはアクスム王国の属国ヒムヤルによる侵攻を受けている。当時、海洋貿易の権益を確保するため紅海からアラビア海にかけての沿岸地方への勢力拡大を目指していた東ローマ帝国は、同じキリスト教国であるエチオピアのアクスム王国を後援してヒムヤルを服属させるなどして、アラビア半島に勢力を伸ばしていた。ヒムヤルがメッカに侵攻した目的は、サヌアのキリスト教会に対抗する多神教の神殿であるカアバ神殿を破壊して教会を建てるためだったとも、商業により繁栄していたメッカの資産を奪うためだったともいわれている。巨大な軍象を率いて侵攻するヒムヤル軍に対してメッカの人々は恐怖に陥ったが、ヒムヤル軍はメッカに入ることなく壊走した。クルアーンでは鳥が運んできた石のつぶてに当たったヒムヤル兵に疱瘡ができ、疫病が蔓延したとされており、この描写からヒムヤル軍に天然痘が蔓延したのではないかと推測されている。このとき、メッカのクライシュ族はフザーア族と同盟を組んでヒムヤル軍に対抗したとされる。
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イスラーム以前
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イスラーム以前を表すジャーヒリーヤ時代から、アラブの遊牧諸部族には多くの優れた詩人が活躍した。詩人たちは慕情、旅の苦労、名誉や事績の称賛、部族間の戦い、敵への誹謗などを題材とし、優れた詩は口承によって伝えられた。6世紀には詩人ムハルヒル(英語版)によりカスィーダ体(英語版)という詩形が創られて盛況となった。押韻を強調する文体であるサジュウ体(英語版)も、この時代に原型があるとされる。のちに記録され文字となった古詩は、詩人、部族、階級などを基準にまとめられた。その中でも有名な名詩選に、七大詩人の長詩をまとめたムアッラカート(英語版)やムファッダリヤート(英語版)がある。押韻の韻律は十六種類あるとされる。
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イスラーム以前
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エスファハーンの歴史は紀元前のアケメネス朝期に遡ることができる。一説には、紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源と言われる。 サーサーン朝の時代にはエスファハーンは軍隊の駐屯地とされており、町は「軍隊」の複数形であるセパーハーン(Sepāhān)の名前で呼ばれていた。サーサーン朝の王ヤズデギルド1世の治世に、ユダヤ人が町に移住させられる。 手工芸品の産地である町は、パルティア王国とサーサーン朝の時代に交易で発展した。 7世紀のイスラム帝国の征服前に、すでに町の原型が形作られていた。ザーヤンデルード川の北を中心に町が形成され、東のジャイ、西のヤフーディーヤの2つの集落が形成された。ジャイは城壁に囲まれた軍事都市、ヤフーディーヤはユダヤ人居住区と異なる役割を有する双子都市であり、ゾロアスター教徒、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒が混住していた。やがてジャイは廃れ、ヤフーディーヤが発展していく。 642年のニハーヴァンドの戦いの前後に町はアラブ人の支配下に入った。サーサーン朝の時代に町に住んでいたゾロアスター教徒の多くはイスラームに改宗、あるいは東方に移住した。しかし、イスラム教徒の支配下でも、残ったゾロアスター教徒、ユダヤ人、キリスト教徒は町の一角に居住していた。
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イスラーム以前
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バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる。 サーサーン朝時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。一説によると、都市名のバグダードは古代ペルシア語で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の農産物の集積地として食糧事情に恵まれ、東西の隊商ルートと南北の河川ルートの交わる交易の結節点となりうる地の利を持っていた。この地方が当時、新興宗教であったイスラム教を信奉するアラブ人たちによって占領されたのは、634年のことである。
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