イスラーム世界の多極化とエジプト
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「エジプトの歴史」の記事における「イスラーム世界の多極化とエジプト」の解説
しかし、王朝がすべての栄誉を独占し、アラブ人を行政上の地位から締め出したとき、宰相職はバルマク家やサフル・ブン・ナウバフト家やターヒル家、のちではブワイフ家のようなペルシャ系家臣、またブガーやワセーフ、ウターミシュ、バーキヤーク(バーヤクベク)、イブン・トゥールーンおよび彼らの子孫のようなトルコ系家臣、その他の非アラブ人の家臣に委ねられた。こうしてアッバース朝は、創設に尽した者以外の人々の手で左右されるようになり、その権力も最初に獲得した者以外の人々に移った。これは神がその召使を取り扱われる方法である。 -イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第3章§17 9世紀に入るとアッバース朝のカリフを中心としたイスラーム世界の秩序は大きな転機を迎えていた。その要因の1つはマムルーク(白人奴隷兵士)またはグラームなどと呼ばれる奴隷兵士の台頭である。アッバース朝期の非アラブ人の役割の増大や内戦、中央アジアの「トゥルク人」奴隷兵士(マムルーク/グラーム)の大規模購入などを通じて、奴隷兵士(以下、全てマムルークと表記する。ただしマムルークを始めとした奴隷軍人の定義の問題は煩瑣であり、この用法は便宜上のものであることに注意されたい)たちがアッバース朝の軍事・社会において大きな役割を果たすようになっていった。 もう1つの要因はアッバース朝の中央政権の求心力が低下し、各地で自律的な政権が誕生していったことである。すでにイベリア半島では後ウマイヤ朝(756年-1031年)、モロッコでイドリース朝(789年-985年)、イフリーキーヤでアグラブ朝(800年-904年)が成立してアッバース朝の統制を離れていたが、アミーンとマアムーンのカリフ位争いによる内乱がこの分裂傾向に拍車をかけた。イラン高原ではサッファール朝、サーマーン朝、ターヒル朝が成立している。
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