イスラーム世界での普及
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「コーヒーの歴史」の記事における「イスラーム世界での普及」の解説
バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった。バンカムはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道者(スーフィー)によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している。スーフィーたちは徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視された。やがてバンカムは「カフワ(欲望を減退させる飲料。ワインの別名)」と呼ばれるようになる。スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた。 13世紀に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになった。豆が焙煎されるようになった経緯は不確かであるが、偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられている。トルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されている。また、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになった。 15世紀以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる。イエメンの古都ザビードでは、1450年頃にスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている。16世紀初頭には、カイロのアズハル大学でもコーヒーが飲まれていた。16世紀初頭のメッカ、メディナ、あるいはカイロのモスクではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された。1525年/26年には風紀を乱すとしてメッカ内のコーヒーハウスの閉鎖が命じられたが、コーヒー自体の飲用は禁止されなかった。 だが、コーラン(クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒーの飲用がシャリーア(イスラーム法)に抵触している疑義、あるいはコーヒー自体がビドア(宗教的逸脱)に該当する懸念のため、コーヒーの飲用に対する反対意見はなおも出続ける。また、コーヒーを供する店が政治的な活動の場、もしくは賭博や売春の場となりえたために国家から嫌悪される。コーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きる。コーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーとカートに互いの正統性について論争をさせる文学が現れた。 1517年、オスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征の際にコーヒーがオスマン帝国に伝わったと言われている。アラビア語の「カフワ」がトルコ語に転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになった。トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、トルココーヒーの名前で知られるようになった。オスマン帝国がコーヒーの産地であるイエメン、エチオピア沿岸部を支配下に収めるとコーヒーの普及はより進み、サファヴィー朝が統治するイラン、ムガル帝国が統治するインドにも伝播した。 コーヒーがもたらすであろう利益に着目した商人はイエメンの外に大量のコーヒーを持ち出し、小規模のスタンドや店舗でコーヒーを販売し、飲み物の宣伝を行った。1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれる。1550年代にはイスタンブールにもコーヒーを供する店舗が開かれ、皇帝セリム2世の時代(1566年 - 1574年)にはイスタンブール内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。しかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブールのカフヴェハーネを非難した。また、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもあった。1580年にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続ける。 オスマン皇帝アフメト1世の治世(1603年 - 1617年)に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となる。メッカにおいては、コーヒーはザムザムの泉の水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰った。また、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していた。 初期のイスラーム世界のコーヒー店ではコーヒーは大鍋に入れて温められ、小さな容器に移して客に供されていたと考えられている。イスラーム世界ではコーヒーに砂糖と牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にカルダモンが使われていた。また、牛乳を入れたコーヒーはハンセン病の原因になるという迷信が存在していた。1600年頃のカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年頃に清に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われている。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた。 オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、旅行記などで故郷の人間にコーヒーの存在を伝えた。ヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになるとコーヒーの需要は増加するが、供給源はイエメンに限られていた。ヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラーム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占した。 トルコ革命を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ない。だが、茶がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物であり、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられている。かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたこともあるヨーロッパのバルカン半島でも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれている。
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