イスラーム以降
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「イスラーム文学」も参照 イスラームの広まりにより、コーランは文学的にも優れた聖典として読まれ、さまざまな民族がアラビア語を使うようになる。また、コーランを正しく読解するためにバスラやクーファではアラビア語の研究も行われた。正統カリフとウマイヤ朝の時代を通じてアラビア語圏はペルシアやエジプトにも拡大し、アフリカへと浸透する。ウマイヤ朝の時代は遊牧民時代の表現を守っていたが、アッバース朝になると都市化がすすみ、詩をはじめとして文芸のジャンルが増加した。散文の世界には諷刺的な観察眼をもつジャーヒズが登場し、博物誌的な大著から『けちんぼどもの書』のような批評まで旺盛に執筆した。また、コルドバのウマイヤ朝によってイベリア半島でもアラビア語の文芸が活発になり、アンダルスと呼ばれた地域ではイブン・ザイドゥーンなどが活躍した。
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イスラーム以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 18:22 UTC 版)
7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、サーサーン朝を滅ぼすと、第3代正統カリフ・ウスマーンの時代からアラブ軍によるホラーサーン遠征が本格化するようになった。 649年にバスラ総督に任命されたアブドゥッラー・イブン・アーミルは自らアラブ軍を率いてホラーサーン諸都市を征服し、ヘラートを征服した。のちにメルヴの住民はイブン・アーミルに投降し、メルヴはアラブの支配下になった。以降、この地は8世紀になるまでマー・ワラー・アンナフル、アフガニスタン遠征の拠点となる。この頃からメルヴはアラビア語でマルウ・アッシャーヒジャーン(Marw al-Shāhijān)と呼ばれるようになった。
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