どこが悲惨なのか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
退屈に陥った人が知るのは、みずからの有限性という悲惨事であり、気晴らしによってその事実から目を逸らそうとしている。ハイデガーは『形而上学とは何か』の中で次のように述べている。「深き退屈は、現存在の深淵を沈黙せる霧のようにさまよい廻り、すべての事物やすべての人間そしてそれらと共にある、人それ自身をも、一緒に一種不思議な無関心の中に陥れるのである。この退屈が全体としての存在事物を顕示するのである」。だからといってこの悲惨事から目を背けようとしても、かえっていっそう悲惨になるだけである。なぜならこの悲惨事のどこが悲惨なのかがわかっていないからだ。すなわち退屈が内に秘めている教育学的可能性に目を向けていないのである。
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