キリスト教の伝承におけるピラト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 00:53 UTC 版)
「ピラト」の記事における「キリスト教の伝承におけるピラト」の解説
ユダヤ総督をつとめたこと以外、ピラトの事跡について史料にはないが、キリスト教がローマ帝国に広がるに従いピラトという人物は歴史編纂者の想像力をとらえた。 2世紀ごろに作られた偽の書簡(登場人物たちの年代が合わない)には、ピラトがクラウディウス皇帝に「イエスを救おうとしたが失敗に終わった」と報告しているものがあったり、テルトゥリアヌスのピラトが当時ひそかにキリスト教徒で、ティベリウスにイエスをパンテオンに加えるべきと提案したとしている説(Apologeticum21,24・5:2)、新約外典の『ニコデモ福音書(『ピラト行伝』とも呼ばれる)』では彼がイエスをどう扱ったかによる公式記録を含んでいると称しており、正典の福音書よりもさらにイエスに同情的な人物としている。ピラトの評判が絶頂になったのは東方諸教会(コプト正教会、エチオピア正教会)が彼を聖人としたときで、ピラトが罪を悔いキリスト教に改宗、熱心な信徒となったとの伝承を保存している。一方、歴史家エウセビオスは著作の中でピラトがカリグラ帝によってガリアに流され、そこで自殺したという伝承を伝えており(エウセビオス、『教会史』II:7)、彼以降、ピラトが自ら命を絶ったり皇帝に処刑される(処刑者はネロだったりティベリウスだったりする場合もある)などという物語も広がった。自殺説はヒエロニムスなどにもみられるが、規模の大きいものではピラトゥス山の伝説で「ピラトが自害後、悪霊がその死体に群がったことで人々はその遺体に近づくことが耐えられず、川に捨てても川が煮えたぎって吐き出される様で、最後に山々に囲まれた墓穴に沈めた。」というものでこの山が後にピラトゥス山と呼ばれるようになったというものである。 しかし、佐藤研は教父の記述を確かではないとしている。また、佐藤研らはマルコ15:1-15節についても、これは実際のピラトの事跡や心情を反映したものでなく、イエスの死の責任をローマ帝国ではなくユダヤ教の指導者に転嫁したいという護教的記述でないかとしている。
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