アエギュプトゥスのキリスト教化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:34 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2021年8月) ( |

アエギュプトゥスのキリスト教化(アエギュプトゥスのキリストきょうか)は、ローマ帝国支配下のエジプト(アエギュプトゥス)のキリスト教化について説明する。
古代エジプトでは古代エジプト古来の宗教が信仰されていたが、ギリシャ人・ローマ人の支配を経てエジプト固有の風土は薄れ、大きく変貌することとなった。また、帝国全体にわたってキリスト教ではない異教の神殿の閉鎖を命じられ、古代エジプトの宗教は瀕死の状態になる。その一方4世紀を通じてキリスト教は地位を高め、異教の信者は減り、390年に皇帝テオドシウス1世の命により国教となったキリスト教以外の異教を禁じられた。これら一連の動きを経て、アエギュプトゥスはキリスト教化されるに至った。
キリスト教化
ローマの支配
「古代エジプト」と呼ばれた地域は、アレクサンドロス帝国など度重なる異民族支配に続いて、1世紀頃には強大な勢力を持っていた古代ローマの支配下に完全に入った。またローマ皇帝の私領として、皇帝個人の収入源となった。この地域は、ローマ帝国にとって重要な穀物の供給地となり、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人の「パンとサーカス」を支えることとなる。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年 - 180年)は、増税したことにより現地エジプト人の反乱を招いた。172年にイシドルス率いるブコリック戦争と呼ばれる反乱が起こり、数年で制圧されたものの、地域経済に大きな打撃となり、これを契機としてアエギュプトゥスの経済が衰退を始めた。
カラカラ(211年 - 217年)は、他の属州と同様、自由民である全てのエジプト人にローマ市民権を認めた(アントニヌス勅令)。それにより、エジプト人もローマ市民権を得る。ただし、これは税収を増やすことが目的で、帝国の財政は歳入を増やしても破綻に向かい、属州の富を基盤とした商業は停滞していった。
その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。
キリスト教はまずアエギュプトゥスに暮らすユダヤ人(ユダヤ教徒)に伝わり、そのユダヤ人改宗者から、東地中海に多く住み当時の知識人階級であったギリシャ人に、そして現地のエジプト人にも広まっていった。エジプト文明の系譜を嗣ぐ民族であり、古代エジプトの宗教を信仰していたエジプト人であったが、その中でも特に下層階級の人々は、ローマ帝国の厳しい圧政によって古来のエジプト宗教への信頼を無くしていたという。そんな中でのキリスト教の浸透であったため、「全ての人は神の前では平等で救済される」という教義に魅力を感じたのであった。
この結果、200年頃までにアレクサンドリアはキリスト教の中心地のひとつに発展し、「アレクサンドリア教会」が成立し、キリスト教の五大総主教座にまで発展することとなった。初代教会の歴史である『教会史』を記したエウセビオスは、アレクサンドリア教会は福音記者マルコが創設したと伝えている。アレクサンドリア教会はキリスト教の歴史の中で大きな影響力を持つこととなる。
パピルスの生産地・集散地であるアレクサンドリアでは数々のパピルス写本が作られ、また羊皮紙写本も作られたと推定される。新約聖書の写本にはアレクサンドリア型と呼ばれる型が存在するほどである。エジプトにおいて発達した砂漠の隠遁修道とも大きくかかわりがある。修道士生活というキリスト教活動は、アエギュプトゥスから世界中に伝わっていったのであった。
また、同じ時期には古代エジプト語から派生したコプト語が発達した。コプト語は、ギリシア文字にエジプト語独特の発音を表すいくつかの記号を補ったコプト文字で書かれる言葉である。このコプト語が、初めの頃のキリスト教宣教者が現地エジプト人に聖書や説教の言葉を伝えるために利用され、やがてアエギュプトゥスのキリスト教の礼拝式の言葉となり、現在でも使われている。コプトとはエジプトの別名で、「コプト正教会」と同起源の名称である。
古来の宗教との共存
323年、後にキリスト教に改宗することとなるローマ皇帝・コンスタンティヌス1世(306 - 337年)と共同皇帝・リキニウスはキリスト教徒の信仰を認める旨の「ミラノ勅令」を発した。また、356年にはローマ皇帝・コンスタンティウス2世(337年 - 361年)が帝国全体にわたってキリスト教ではない異教(ローマ神話、ギリシア神話、ユダヤ教、ミトラ教など)の神殿の閉鎖を命じる。
4世紀を通じてキリスト教は地位を高め、その他の宗教(ローマ神話、ギリシア神話、ユダヤ教、ミトラ教など)の信者は減っていき、そして390年には、テオドシウス1世の勅命により国教となったキリスト教以外の異教を禁じられた。ただし、エジプト南部のアスワンに残るフィラエ神殿(イシス神殿、現存する神殿はプトレマイオス朝時代に建設されその後ローマ時代にわたって増築が行われてきた)に残る4世紀頃の落書きなどを見ると、古代エジプトの宗教の神々に対する崇拝は一部の人々(旧エジプト貴族の家柄、ヌビア人など)によって隠れて残された。また、5世紀になっても女神イシスやその他の神々が信仰され、祀られていた。
また、この頃にはプトレマイオス朝時代に作られたアレクサンドリア図書館は、財政破綻のため規模を縮小し、その蔵書や重要性もかつてのように高くはなくなった。後に、本館は暴動のさなかに掠奪・破壊され、その姉妹館であった付属のセラペウムは391年にアレクサンドリア総主教テオフィロスが発した布告の下に略奪と破壊に晒され、かつての遺構や重要性は、キリスト教から見る『異教』という名目で根絶やしにされる。
それに代わり、アレクサンドリアには、『アレクサンドリアのキリスト教図書館』が作られ、そこでは主にキリスト教神学的な議論が交わされ、蔵書された。また、ローマ帝国がキリスト教化するにつれ、アレクサンドリア図書館などの、東地中海に多く残るヘレニズム時代の大図書館(アレクサンドリア図書館、アンティオキアの図書館など)を模範としたキリスト教徒の図書館がギリシア語圏であるローマ帝国の東部全域に設立され始めた[1]。こうした図書館の中で最大かつ最も有名なものに、カエサレア・マリティマの神学図書館、エルサレム図書館などがあった。そんな中で、古代ギリシア・ヘレニズム的な観点を吸収しながら、キリスト教は大きく変貌し、成長する。
東ローマ時代
この時、エジプトのテーベ(現ルクソール)に存在し、最も格式高い神殿であったカルナック神殿は、この異教弾圧の時代に大部分が放棄されることとなり、その跡にはキリスト教会が廃墟のなかに設けられた。このうち最も有名な例は、トトメス3世祝祭殿の中央の間の再利用であり、そこには聖人が描かれた装飾やコプト語の碑文が今もなお見られる[2]。
また、イシス崇拝を存続させていたナイル川第一瀑布のフィラエ島のフィラエ神殿での伝統的な礼拝は、当時の反異教徒の迫害にもかかわらず、少なくとも5世紀に生き残り、キリスト教と共存していた。キリスト教化される頃の最初の司祭はマセドニオスで、神殿に保管されている神聖なハヤブサを殺したと伝説が語るが、現代の専門家はこの記述の歴史を疑問視することが多い。少なくとも、5世紀半ばまでに異教の神殿と共にキリスト教の教会が存在し、共存していた。
その後、ローマ帝国のもとでの4世紀末にテオドシウス1世が、帝国内の全ての古代神殿を閉鎖しようとしたとき、フィラエ島のフィラエ神殿だけは抵抗を続け、453年に不可侵の条約が締結され、周辺地域の宗教的自由が保証され、その条約はユスティニアヌス1世の閉鎖まで約100年間守られることとなる。
395年1月、ローマ帝国が東西分裂し、アエギュプトゥスはその内の東方領土、即ち東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領土となった。
その後、古代ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。また、キリスト教の浸透とともに独自のコプト正教会が生まれた。その一方で、東ローマ帝国の治下約100年間にわたって古代エジプトの宗教は存続した。
異教の禁止
しかし、世俗政治と同様に皇帝の教会政策でも専制君主の片鱗が垣間見えることとなる 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世はキリスト教以外の異教の強硬な弾圧を推し進め、その一環としてエジプトの宗教の神殿の閉鎖命令が出された。遂に550年、ユスティニアヌス1世により最後の古代宗教の抵抗集団であったアスワンのフィラエ神殿(イシス神殿)は閉鎖され、古代エジプトの遺風はついに失われることとなった。
閉鎖後は、4つのキリスト教会として再利用されることとなり、古代エジプト文明時代の古い神々やそれに伴う独自の文化、古代エジプトの神々や文字、歴代ファラオが築き上げた歴史は忘れ去られ、エジプトの砂漠の中に多くの神殿は放置され、砂漠化するか、キリスト教の教会などに転用されたりした。また、フィラエ神殿は古代エジプトの宗教の中心地ではなくキリスト教の中心地としての重要性を保持することとなり、その神殿のうち5つは教会に転用されることとなった。その内のイシス神殿は聖ステファノス教会に奉献された[3]。その過程で、多くの神像は聖母マリア(イシス神像からの転用が多かった)やイエス・キリストの像に転用されるか、破棄されるかの運命を辿った。
また、その他にもリビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝は廃止され[4]、そして同じことがイシス神崇拝の残滓でも起こった[5]。古代エジプトの文化と宗教を守り継いだ民族のうち、唯一ヌビアのみがその信仰を後世に伝えたのであった。
不安定な支配
このころのアエギュプトゥスの地は、キリスト教の神学論争の中心地でもあった。415年には、こうした雰囲気の中で、キリスト教徒とみられる[6]暴徒達によって、アレクサンドリアからユダヤ人を追放させる事件が起きた。
その時、女性哲学者ヒュパティアは異教徒であるとして殺された。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』にて、四旬節のある日、総主教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害したと伝えている[7][注 1][注 2]。
その後、これによって古代ギリシア、プトレマイオス朝エジプト王国から受け継がれた秀でた学問の系譜は、このアエギュプトゥスでは途絶えることとなった。しかし、後にアレクサンドリアでは、キリスト教徒・ユダヤ教徒がプトレマイオス朝以来のプラトン主義を含む哲学・思想の系譜を引き継ぐこととなる。そして、この学問の系譜はイスラームのアラブ人に征服されるまで聖書文献学の中心として発展したのであった[10]。
また、451年のカルケドン公会議でキリスト単性論が異端とされ、単性論の一種と見なされた合性論を支持して議決を誤解・不服であると主張したエジプト、アルメニア、シリアなどの教会が大規模に東ローマ帝国の国教会(カルケドン派・のちのギリシャ正教)から分立し、非カルケドン派正教会を形成した。この教会分裂を原因とする内紛は延々と続き、そのために帝国の中でもアエギュプトゥスは異質な存在となり、混乱した。
その後
7世紀頃に東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシア帝国との間で争いが起こり、その結果、618年または619年からアエギュプトゥスはペルシアに占領された。その後は、東ローマ帝国がアエギュプトゥスを奪還するなどしたが、合性論派のコプト正教会が堂々と考えを主張するようになるなど、宗教的にも政治的にも東ローマ帝国の支配から遊離し、半分裂状態となった。しかも、そこには新たな敵が控えており、それがイスラーム帝国(正統カリフ国家)であった。
預言者ムハンマドの政治的後継者である第2代正統カリフのウマル・イブン・ハッターブは、将軍アムル・イブン・アル=アースを派遣し、攻撃を繰り返して東ローマ軍をアレクサンドリアに追い詰め、遂に陥落させて入城し、東ローマ兵をギリシアへと引き上げさせることに成功した。7世紀以降のイスラーム化を経てエジプト固有の風土は薄れ、大きく変貌することとなった。その時代の主な首都はテーベでもなくアレクサンドリアでもなくカイロだった[注 3]。
後にイスラーム王朝であるファーティマ朝、トゥールーン朝、アイユーブ朝、マムルーク朝の中心地としての役割をアエギュプトゥスは果たし、15世紀にはエジプトはオスマン帝国の支配下に入った。
古代宗教のその後
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
古代エジプトの宗教は、グレコ・ローマン時代においては廃絶や崩壊などという危機に陥ることはなかった。アウグストゥス帝は新しい神殿をアエギュプトゥス属州に建て、古代エジプトの既存の神殿を修復したり、後の皇帝もアウグストゥスよりも小さいスケールではあるが同様な庇護を行った。しかし、ネルウァ=アントニヌス朝の皇帝がエジプトの宗教に対して寄進を行い、庇護したのを最後に衰退する。その後のローマ皇帝たちも寄進をしなかったわけではなかったが、軍人皇帝時代(三世紀の危機)とドミナートゥス時代以降は皇帝たちの宗教に対する庇護も薄れた。しかし、最終的に古代エジプトの宗教の破滅を招いたのは、アエギュプトゥス属州におけるキリスト教の出現とその浸透である[11]。
キリスト教は時に非キリスト教(異教)を徹底的に排除し、抑圧した。古代宗教の最終的な破壊は、「悪魔を根絶する」という意図で異教徒を徹底的に攻撃、抑圧、そして最終的には断絶させたキリスト教の司祭、主教、修道士らに起因している。423年には大規模な騒動があった。6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はキリスト教の熱心な信者であり、異教徒を迫害した[12]。
その後、神殿が荒廃し、エジプト全土の宗教構造が変化するにつれ古代の宗教は徐々に消え去った。また、この時代では古代のファラオ達によって建設された神殿は荒れるに任され、その存在も忘れ去られていく。また、一部の村落において存続していた儀式などの行事を大いに排除した[13]。古代エジプトの文化は今では一部の習俗に名残をとどめるのみとなっており、エジプト語(コプト語)に至っては、コプト正教会とコプト典礼カトリック教会の典礼言語として残っている他、上エジプトの隔絶された地域にあるサイード人村落に僅かに母語話者が残るのみとなっている。
古代エジプト文化の最後の名残の一つであるコプト語は、キリスト教化と後のイスラーム化を生き延び、後期エジプト語の遺風を残した。コプト語は、後にエジプト学者に古代エジプト語の音源に関する重要な洞察を与えたと考えられている。
しかし、古代後期には、エジプトの宗教の影響は他の宗教にも現れた。ギリシャ人とローマ人はエジプトをエキゾチックで神秘的なものとみなし、国とその宗教に対するこの魅力は地中海周辺の拡散にいくらかつながった。イシスやベスのような神々は地中海の交易によって他地域にも広がりを見せ、地中海一帯はもちろん、ブリタンニアにおいてもイシス信仰の痕跡は確認されている。
また、古代エジプトの宗教は、1970年代に出現した現代「ケメティズム」によって復興が試みられている。ケメティズムの信者は、一般的にマート、バステト、アヌビス、セクメト、トートなどを崇拝している。
脚注
注釈
参考文献
- ^ Nelles 2010page=533
- ^ Blyth (2006), p. 234
- ^ Procopius, De Aedificiis, vi. 2.
- ^ Procopius, De Aedificiis, vi. 2.
- ^ Procopius, Bellum Persicum, i. 19.
- ^ 『世界哲学史2』(ちくま新書、2020年)189ページ
- ^ http://www.fordham.edu/halsall/source/hypatia.asp Socrates Scholasticus: The Murder of Hypatia
- ^ “Was Saint Katherine Really Hypatia of Alexandria?”. ORTHODOX CHRISTIANITY THEN AND NOW. 2021年8月13日閲覧。
- ^ “Is St Catherine of Alexandria a Fictional Person Based on Hypatia of Alexandria?”. Ancient Origins. 2021年8月13日閲覧。
- ^ 『世界哲学史2』112-113、190ページ
- ^ Frankfurter 1998, pp. 23–30.
- ^ Procopius, Bellum Persicum, i. 19.
- ^ フランクフルター 1998, P. 28
関連項目
- アエギュプトゥスのキリスト教化のページへのリンク