異教の禁止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:34 UTC 版)
「アエギュプトゥスのキリスト教化」の記事における「異教の禁止」の解説
しかし、世俗政治と同様に皇帝の教会政策でも専制君主の片鱗が垣間見えることとなる 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世はキリスト教以外の異教の強硬な弾圧を推し進め、その一環としてエジプトの宗教の神殿の閉鎖命令が出された。遂に550年、ユスティニアヌス1世により最後の古代宗教の抵抗集団であったアスワンのフィラエ神殿(イシス神殿)は閉鎖され、古代エジプトの遺風はついに失われることとなった。 閉鎖後は、4つのキリスト教会として再利用されることとなり、古代エジプト文明時代の古い神々やそれに伴う独自の文化、古代エジプトの神々や文字、歴代ファラオが築き上げた歴史は忘れ去られ、エジプトの砂漠の中に多くの神殿は放置され、砂漠化するか、キリスト教の教会などに転用されたりした。また、フィラエ神殿は古代エジプトの宗教の中心地ではなくキリスト教の中心地としての重要性を保持することとなり、その神殿のうち5つは教会に転用されることとなった。その内のイシス神殿は聖ステファノス教会に奉献された。その過程で、多くの神像は聖母マリア(イシス神像からの転用が多かった)やイエス・キリストの像に転用されるか、破棄されるかの運命を辿った。 また、その他にもリビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝は廃止され、そして同じことがイシス神崇拝の残滓でも起こった。古代エジプトの文化と宗教を守り継いだ民族のうち、唯一ヌビアのみがその信仰を後世に伝えたのであった。
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