不安定な支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:34 UTC 版)
「アエギュプトゥスのキリスト教化」の記事における「不安定な支配」の解説
このころのアエギュプトゥスの地は、キリスト教の神学論争の中心地でもあった。415年には、こうした雰囲気の中で、キリスト教徒とみられる暴徒達によって、アレクサンドリアからユダヤ人を追放させる事件が起きた。 その時、女性哲学者ヒュパティアは異教徒であるとして殺された。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』にて、四旬節のある日、総主教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害したと伝えている。 その後、これによって古代ギリシア、プトレマイオス朝エジプト王国から受け継がれた秀でた学問の系譜は、このアエギュプトゥスでは途絶えることとなった。しかし、後にアレクサンドリアでは、キリスト教徒・ユダヤ教徒がプトレマイオス朝以来のプラトン主義を含む哲学・思想の系譜を引き継ぐこととなる。そして、この学問の系譜はイスラームのアラブ人に征服されるまで聖書文献学の中心として発展したのであった。 また、451年のカルケドン公会議でキリスト単性論が異端とされ、単性論の一種と見なされた合性論を支持して議決を誤解・不服であると主張したエジプト、アルメニア、シリアなどの教会が大規模に東ローマ帝国の国教会(カルケドン派・のちのギリシャ正教)から分立し、非カルケドン派正教会を形成した。この教会分裂を原因とする内紛は延々と続き、そのために帝国の中でもアエギュプトゥスは異質な存在となり、混乱した。
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