不安定な平和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「不安定な平和」の解説
ディミトリの死後、ギオルギはジョージア唯一の王に君臨した。ギオルギはジョージアの君主としての伝統的な称号「アブハズ(グルジア語版)、カルトリ、アラン、カヘティ、アルメニアを統べる2つの玉座と王国の主であり、主権者である諸王の王、ニムロドの子孫たるシルヴァン(グルジア語版)にしてシャーハンシャー」を有した。 ギオルギ8世の戴冠式は宗教上の首都であるムツヘタで開催された。弟であるカトリコス総主教ダヴィト4世(グルジア語版)によって祝福を与えられ、式典には全ジョージアの主教たちが出席した。ギオルギ8世はその後、ジョージア西部の貴族たちと同盟を結んだ。1455年には野心的な考えを持っていた従弟のバグラト(グルジア語版)をサモカラコ(グルジア語版)のエリスタヴィ(グルジア語版)に任命し、イメレティ(グルジア語版)の支配権を与えた。 ジョージア唯一の王となったギオルギ8世がまず直面したのは、カスピ海地方でイスラム教徒を領民とするシルヴァン(グルジア語版)での、ジョージアの封臣の反乱であった。地元のシルヴァンシャーであるカリルラ1世(英語版)は独立国となることを目指し、ジョージア王国への朝貢を止めた。ギオルギ8世はシルヴァンを軍を送り込み、カバラを包囲してジョージアの下に戻るよう強制した。この結果、シルヴァンは王国に敬意を表し、再び従属した。 1456年、白羊朝スルタンのウズン・ハサンが初めてジョージア王国に侵攻、ソムヒティ(アルメニア語版)を破壊し、オルベティ城塞(グルジア語版)を包囲した。地元の領主はウズン・ハサンへの服従を申し出て援助を行ったことから、その領地は侵攻から救われることとなった。ウズン・ハサンはその後、カルトリを壊滅的な状態にし、ムフラニ(グルジア語版)の街を占領した後、自国へと帰還した。
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