不安定な身分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 23:27 UTC 版)
「メアリー1世 (イングランド女王)」の記事における「不安定な身分」の解説
王妃キャサリン・オブ・アラゴンは4度の懐妊に失敗していたが、5度目の懐妊でメアリーを出産した。メアリーの名は、叔母メアリー王女(ヘンリー7世の末子)にちなんだものだった。 当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、鍾愛した。養育係としてプランタジネット家男系最後の生き残りであるマーガレット・ポールが任命された。 1519年、ヘンリー8世は庶子のヘンリー・フィッツロイが生まれると、この男児をただちにリッチモンド公爵に叙している。ヘンリー8世の父ヘンリー7世が即位前にリッチモンド伯爵だったことからもわかるように、この叙爵は庶子に対するものとしては破格のもので、この子が正嫡でないことへの無念さがそこには見て取れる。一方メアリーに対しては、プリンス・オブ・ウェールズに相当する王女として「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号が用いられたものの、そこに世継ぎとしての法的な根拠は付与されなかった。 ヘンリー8世はメアリーの幼児期を通して常に、メアリーと然るべき名家の男子との縁談を模索していた。当初はフランスの王子を検討し、2歳の時にフランソワ1世の王子フランソワと婚約したが破談になった。1522年、6歳の時に16歳年上の従兄である神聖ローマ皇帝カール5世と婚約したが、再び破談となった。再度フランスと、ということでフランソワ1世の第2王子アンリ(のちのアンリ2世)との婚約を模索したが首尾よく行かなかった。しかし、少女期のメアリーは非常に美しく、魅力的であり、そのことは他国にも伝わっていたという。 メアリーが9歳になる頃には、キャサリンとの間にもうこれ以上の子はできないことが明らかな情勢となっていた。男子を切望するヘンリー8世は、寵愛するアン・ブーリンと再婚するためにキャサリンとの婚姻無効を宣言、これとともにメアリーからは世継ぎの地位ばかりか王女の身位までが剥奪されて庶子とされた(第一継承法も参照)。ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが、拒否されている。 やがてアン王妃が第2王女エリザベスを産むと、アンはメアリーに対して名目上の「プリンセス・オブ・ウェールズ」となったエリザベスへの臣従を強要したが、メアリーはエリザベスを「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱねた。怒ったアンはメアリーを強引にエリザベスの侍女の身分におとしめ、自身の叔母の監視の下、幽閉状態に置いた。アンが王妃の間を通じてヘンリー8世はメアリーとの面会は拒絶している。アンはかつての愛人だったノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシー(英語版)に対して、メアリーを殺すつもりだと話していたことが知られている。またアンの裁判では、複数の者がメアリーの毒殺未遂があったことを証言している。この時期、ハートフォードシャーで幽閉状態にあったメアリーは病気がちであり、養育係のポールや侍女、侍従たちと引き離された彼女にとっての唯一の相談相手かつ庇護者だったのは、神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイ(英語版)であった。メアリーがヘンリー8世と再会したのはアンが処刑されたときだった。次の王妃ジェーン・シーモアとの関係は良好であった。ジェーンはヘンリー8世とメアリーが和解することを強く望んだ。ヘンリー8世の和解条件は、ヘンリー8世がイングランド国教会の長であること、そして両親の結婚が無効であることを認めることであった。当初、メアリーはこれを拒絶したが、メアリーの境遇の安定のためにシャピュイと神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の説得により、渋々この条件を受けいれた。メアリーは宮廷に戻り、かつて王女として持っていた財産と侍女らも戻され、ボーリュー城などが住居として与えられた(メアリーの前の城主はアン・ブーリンの弟のジョージだった)。ジェーンが王子エドワードを出産すると、メアリーはこの王子の洗礼の代母役を務めた。その一方で、メアリーはエリザベスと共に庶子として扱われ続けた。このことに対し、メアリーを王女の地位に戻すことを求めた反乱(恩寵の巡礼)が、かつてのメアリーの侍従であったスリーフォード男爵ジョン・ハッセーによって起こされた。ハッセーは処刑されたが、メアリーはこの件に不関与とされ、罪に問われることはなかった。 1539年、プファルツ=ノイブルク公フィリップ(英語版)から求婚を受けるが、プロテスタントであることから断っている。この頃、ヘンリー8世はメアリーを王妃不在時の宮廷の「女主人」として扱うようになっていた。 ヘンリー8世が晩年に6番目の王妃としたキャサリン・パーは、家族の絆を大切にすることに心を砕き、まだ幼少のエドワードとエリザベスを自らのもとで養育するとともに、4歳年下の「娘」のメアリーにも心を砕いた。こうした努力が実り、健康を害して近い将来の死を悟ったヘンリー8世は、エドワードがまだ幼くひ弱な体質であることを危惧して、1543年に王位継承法を改正しメアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権を与えた(第三継承法も参照)。しかし「プリンセス」の称号は復活させず、「レディ」の称号のままであった。果してヘンリー8世はその翌年に死去し、まだ9歳のエドワード6世が即位した。
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