プリンセス・オブ・ウェールズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 01:58 UTC 版)
プリンセス・オブ・ウェールズ (Princess of Wales, ウェールズ公妃、ウェールズ大公妃、ウェールズ大侯妃)は、イギリスのプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)の妃に自動的に与えられる儀礼称号(courtesy title)である。
- ^ “エリザベス英女王、皇太子即位後のカミラ夫人の肩書は「王妃」に(2022年2月6日)”. BBC. 2022年9月24日閲覧。
- ^ “Twitterイギリス王室公式アカウント”. 2022年9月9日閲覧。
- ^ “タブー視される英ロイヤルの離婚&再婚における複雑なルール”. Cosmopolitan. 2022年6月14日閲覧。
- 1 プリンセス・オブ・ウェールズとは
- 2 プリンセス・オブ・ウェールズの概要
- 3 関連項目
プリンセス・オブ・ウェールズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:39 UTC 版)
「アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の記事における「プリンセス・オブ・ウェールズ」の解説
1863年3月10日、王太子アルバート・エドワードと結婚。2人の間には3男3女が生まれた。しかし結婚後も王太子の奔放な女性遍歴は絶えることはなかった。夫の不倫と自分への愛情の無さを見て見ぬふりを通し、その屈辱を子育てで耐え忍んでいたアリックスは、息子たちに「お父さまの様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。夫の漁色と愛情の無い冷え切った夫婦生活で悩むアリックスは、妹ダウマー夫妻の仲の良さを羨ましがったという。 アリックスは、夫の愛人と言われた女性には蔑称をつけて呼んでいた。また、夫と関係を噂されている女性が連れ立って歩いているのを見かけると、夫をその女性共々「豚」に例えた事もある。子育てに専念する事で夫の不倫と冷え切った夫婦関係の屈辱を耐えていたアリックスも、子供が親元から離れていくと、一人で屈辱に耐える日々が始まる。そんなアリックスを打ちのめしたのが、長男アルバート・ヴィクターの死であった。未来の国王として育ててきたアリックスにとって、アルバート・ヴィクターが28歳の若さで病死したことは大きな痛手で、一時は王室行事に出席しない日々が続いた程だった。 アルバート・ヴィクターの婚約者だったテック公女メアリーは、次男ジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)と結婚した。ジョージは長男よりも手のかかった王子で、一度癇癪を起こすと暴れ出すという気性の激しい次男を育てるのは苦労した。また、メアリー妃は姑のアリックスとは性格や価値観の不一致で仲が悪かった。1894年、メアリーはエドワード王子(後のエドワード8世)を出産したが、イギリス王室のしきたりに従い子供の教育を一切せず、侍従や女官に任せていた。子供には母親の愛が必要と感じたアリックスが、もう少し子供に接するように注意したが、メアリーは「王室のしきたり」だとして姑の言葉を一切聞き入れなかった。メアリー妃はヴィクトリア女王のように王室のしきたりを厳重に守っており、ヴィクトリア女王もメアリーを愛していた。そのため、アリックスは孫たちには祖母として、時には母親として接した。特に、1901年にヴィクトリア女王が崩御した後に、次男夫妻が9ヶ月もの間4人の子供達を置いて植民地などを訪問する事となった際は、両親に甘えることすらできない孫達を不憫に思い、非常に可愛がりながら接していたという。 アリックスの義理の妹でヴィクトリア女王の四女ルイーズが年頃になると、ヴィクトリア女王は娘のために良い嫁ぎ先を探し始めた。アリックスは「自分の兄であるデンマーク王太子フレゼリク(後のフレゼリク8世)はどうか」と打診した。が、女王は第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、長女ヴィクトリアのいるプロイセンと義理の娘アリックスの故国デンマークとが争った事態に心を痛めていたため、この縁組に反対した。結局ルイーズはスコットランド貴族のアーガイル公爵の後継者のローン侯爵ジョンと結婚した。これにはアリックスの夫アルバート・エドワード王太子が難色を示した(当時、一国の君主の娘が臣下に降嫁することは問題外であった)。 アリックスは義弟のザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの妃マリアとも仲が悪かった。彼女の父ロシア皇帝アレクサンドル2世は、娘マリアには“Her Imperial Highness”の称号を使わせつづけることを無理やり英国王室に承知させるなど、父娘で傲慢さが評判だった。1887年、ヴィクトリア女王在位50年式典での座席位置でどちらが上位に座るかが問題になるとマリアは「自身はロシア皇女であり、たかがデンマークの一王女にすぎないアリックスよりも立場は上」と発言。一方、アリックスは「ロシア皇女といっても前皇帝の娘、今のロシア皇帝の妃は自身の妹であり、たかがドイツの一公国の妃にすぎないマリアが上位なのはおかしい」と主張。しかし結局、マリアが上位に座ることとなり、アリックスは屈辱を甘受せざるを得なかった。 この当時は、ロシア皇后となった妹ダウマーとは、毎年のようにパリで落ち合い、お揃いのドレスで社交界に現れたり、デンマークの実家で互いの家族と休暇を楽しんだり、一家で親交を深めた。父のクリスチャン9世亡き後はコペンハーゲンの北にダウマー一家と会うための別荘を共同で購入している。 アリックスは、妹ダウマーの息子で甥である皇太子ニコライ(後のニコライ2世)とヘッセン大公女アレクサンドラの結婚を、ダウマーと皇帝アレクサンドル3世夫妻と共に反対した。アレクサンドラ大公女は、非社交的でヒステリックな癇癪を引き起こす事がたびたびあり、広大な領地をもつロマノフ王朝の皇后として責務を果たせるのかどうかを疑っていた。また、アレクサンドラの生家のヘッセン大公家では、一族に次々と不吉な出来事が起きていたため、ヘッセン大公家の血を引くアレクサンドラがロシア帝室に嫁ぎ、ロマノフ家に不幸が及ぶのではないかと心配していた。 そんなさなか、ダウマーの夫でアリックスの義弟アレクサンドル3世が病に倒れ、1894年に崩御した。アレクサンドル3世の葬儀参列のため、夫のアルバート・エドワードと共にロシアを訪問し、夫の崩御で悲しみに暮れるダウマーを励ました。また、ニコライ2世に、ダウマーと共に改めてアレクサンドラとの結婚に反対したが、アルバート・エドワード王太子とニコライ2世が取り決めて、結婚が成立した。最後までこの結婚に反対したアリックスとダウマーは祝うことができなかった。 その誇り高い美貌のために、アリックスは《イングランドのエリーザベト》とも呼ばれた。オーストリア帝国の皇后エリーザベト本人もアリックスの美貌と自身の美貌のどちらが優れているか気にしており、ヴィクトリア女王の晩餐会に出席した際には、いち早く言葉を交わした。また、夫のエドワード・アルバートは、エリーザベト皇后とルドルフ皇太子と仲が良かった。
※この「プリンセス・オブ・ウェールズ」の解説は、「アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の解説の一部です。
「プリンセス・オブ・ウェールズ」を含む「アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の記事については、「アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の概要を参照ください。
- プリンセス・オブ・ウェールズのページへのリンク