プリンセス・オブ・ウェールズとは? わかりやすく解説

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プリンセス・オブ・ウェールズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 14:26 UTC 版)

プリンセス・オブ・ウェールズPrincess of Wales, ウェールズ公妃ウェールズ大公妃ウェールズ大侯妃)は、イギリスプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)の妃に自動的に与えられる儀礼称号courtesy title)である。

現在のプリンセス・オブ・ウェールズは、チャールズ3世の長男ウィリアムの妃キャサリンである。

プリンセス・オブ・ウェールズの一覧

歴代のウェールズ公妃を年代昇順に並べると、次のようになる(括弧内は称号を持っていた期間)。

画像 名前(期間) 期間 年数 配偶者
ジョーン1361年 - 1376年 エドワード3世の長男エドワード黒太子
アン1470年 - 1471年 ヘンリー6世の長男エドワード
キャサリン1501年 - 1502年   ヘンリー7世の長男アーサー
キャロライン1714年 - 1727年 ジョージ1世の長男ジョージ・オーガスタス(→ジョージ2世
オーガスタ1736年 - 1751年 ジョージ2世の長男フレデリック・ルイス
キャロライン1795年 - 1820年 ジョージ3世の長男ジョージ・オーガスタス・フレデリック(→ジョージ4世
アレクサンドラ1863年 - 1901年 ヴィクトリアの長男アルバート・エドワード(→エドワード7世
メアリー1901年 - 1910年 エドワード7世の次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(→ジョージ5世
ダイアナ1981年 - 1997年 エリザベス2世の長男チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ
カミラ2005年 - 2022年[注釈 1] エリザベス2世の長男チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(→チャールズ3世
キャサリン2022年 - ) チャールズ3世の長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイ

儀礼称号以前のウェールズ公妃

  • イザボー・ド・ブロウズ - ダヴィズ・アプ・グリフィズの妃
  • エリナー・ド・モンフォール - 独立時代最後のウェールズ公ルウェリン・アプ・グリフィズの妃

称号喪失原因

ウェールズ公妃は、夫の国王即位、夫の死、夫との離婚などによって、ウェールズ公妃の称号を自動的に失う。

夫の国王即位の例

歴代のウェールズ公妃のうち、夫のウェールズ公が国王に即位した者は、ジョージ2世妃キャロライン、ジョージ4世妃キャロライン、エドワード7世妃アレクサンドラ、ジョージ5世妃メアリー、チャールズ3世妃カミラの5人である。彼女たちは夫の即位と同時に王妃(Queen consort)になった。

カミラは、多くの法学者の解釈によれば夫チャールズが国王に即位すれば自動的に王妃になるとされていたが、本人は王妃(Queen consort)の称号を名乗ることを辞退し、2005年の結婚当初は「Princess consort」の称号を名乗ることを希望していた。その後、2022年2月にエリザベス2世が即位70周年を前に記念メッセージを出した際、カミラが将来的には王妃となることに触れ、これによりカミラ王妃(Queen Camilla)と呼ばれる見通しとなった[1]。同年9月8日、エリザベス2世の崩御に伴い、イギリス王室からカミラを「Queen Consort」と称する声明が公式発表された[2]

夫の死の例

ジョーン、オーガスタは、夫との死別によりウェールズ公妃でなくなり、ウェールズ公太妃Dowager Princess of Wales)となった。

アンは、夫エドワードとの死別によってウェールズ公太妃となった後、グロスター公リチャードと結婚し、夫がリチャード3世として王位に就いたため王妃となった。

キャサリンは、夫アーサーと死別によってウェールズ公太妃となった後、義弟のヘンリー8世と結婚したため、ヘンリー8世の妻として王妃となった。そしてヘンリー8世との婚姻が無効と宣言されると、再びウェールズ公太妃となった。

夫との離婚時の選択

ダイアナは、夫チャールズとの離婚により、自動的に、殿下(HRH:Her Royal Highness)の敬称をつけられる資格を失った。

離婚後、ダイアナはDiana, Princess of Walesと名乗った。これは、貴族と離婚した女性が「自分自身の個人名+離婚前の称号に基づく呼称」を離婚後の呼称として用いることを許されている慣例に従ったものとされる。ダイアナ元妃は離婚時に「Her Royal Highness(妃殿下)」の称号が剥奪されたが、「プリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃)」の称号は維持することができた。これは、アンドルー王子の元妻サラ・ファーガーソンも同じく、離婚後に「HRH(妃殿下)」の称号を剥奪されたが、今でも「ダッチェス・オブ・ヨーク(ヨーク公爵夫人)」の称号を使っている[3]

脚注

  1. ^ プリンセス・オブ・ウェールズの称号は保持していたものの、チャールズの前妻ダイアナがプリンセス・オブ・ウェールズとして国民的人気と知名度があったため、カミラは呼び名(style)としてこの称号を用いず、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)の称号を用いていた。

関連項目


プリンセス・オブ・ウェールズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:39 UTC 版)

アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の記事における「プリンセス・オブ・ウェールズ」の解説

1863年3月10日王太子アルバート・エドワード結婚2人の間には3男3女が生まれた。しかし結婚後も王太子奔放な女性遍歴絶えことはなかった。夫の不倫自分への愛情無さ見て見ぬふり通し、その屈辱子育てで耐え忍んでいたアリックスは、息子たちに「お父さま様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。夫の漁色愛情の無い冷え切った夫婦生活で悩むアリックスは、妹ダウマー夫妻の仲の良さを羨ましがったという。 アリックスは、夫の愛人と言われ女性には蔑称をつけて呼んでいた。また、夫と関係を噂されている女性連れ立って歩いているのを見かけると、夫をその女共々「豚」に例えた事もある。子育て専念する事で夫の不倫冷え切った夫婦関係屈辱を耐えていたアリックスも、子供親元から離れていくと、一人屈辱耐える日々が始まる。そんなアリックス打ちのめしたのが、長男アルバート・ヴィクターの死であった未来の国王として育ててきたアリックスにとって、アルバート・ヴィクター28歳若さ病死したことは大きな痛手で、一時王室行事出席しない日々続いた程だった。 アルバート・ヴィクター婚約者だったテック公メアリーは、次男ジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)と結婚したジョージ長男よりも手のかかった王子で、一度癇癪を起こす暴れ出すという気性激し次男育てるのは苦労したまた、メアリー妃は姑のアリックスとは性格価値観不一致で仲が悪かった1894年メアリーエドワード王子(後のエドワード8世)を出産したが、イギリス王室しきたり従い子供教育一切せず、侍従女官任せていた。子供には母親の愛が必要と感じたアリックスが、もう少し子供接するように注意したが、メアリーは「王室しきたり」だとして姑の言葉一切聞き入れなかった。メアリー妃はヴィクトリア女王のように王室しきたり厳重に守っており、ヴィクトリア女王メアリー愛していた。そのため、アリックス孫たちには祖母として、時には母親として接した。特に、1901年ヴィクトリア女王崩御した後に、次男夫妻が9ヶ月もの間4人の子供達を置いて植民地などを訪問する事となった際は、両親甘えることすらできない孫達を不憫に思い、非常に可愛がりながら接していたという。 アリックス義理の妹ヴィクトリア女王四女ルイーズ年頃になると、ヴィクトリア女王は娘のために良い嫁ぎ先探し始めたアリックスは「自分の兄であるデンマーク王太子フレゼリク(後のフレゼリク8世)はどうか」と打診した。が、女王第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、長女ヴィクトリアのいるプロイセン義理の娘アリックス故国デンマークとが争った事態心を痛めていたため、この縁組反対した。結局ルイーズスコットランド貴族アーガイル公爵後継者ローン侯爵ジョン結婚した。これにはアリックスの夫アルバート・エドワード王太子難色示した当時一国君主の娘が臣下降嫁することは問題外であった)。 アリックス義弟ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの妃マリアとも仲が悪かった。彼女の父ロシア皇帝アレクサンドル2世は、娘マリアには“Her Imperial Highness”の称号使わせつづけることを無理やり英国王室承知させるなど、父娘傲慢さ評判だった。1887年ヴィクトリア女王在位50年式典での座席位置でどちらが上位に座るかが問題になるとマリアは「自身ロシア皇女であり、たかがデンマークの一王女にすぎないアリックスよりも立場は上」と発言一方アリックスは「ロシア皇女といっても前皇帝の娘、今のロシア皇帝の妃は自身の妹であり、たかがドイツの一公国の妃にすぎないマリア上位なのはおかしい」と主張。しかし結局マリア上位に座ることとなり、アリックス屈辱甘受せざるを得なかった。 この当時は、ロシア皇后となったダウマーとは、毎年のようにパリ落ち合いお揃いドレス社交界現れたり、デンマーク実家互い家族休暇楽しんだり、一家親交深めた。父のクリスチャン9世亡き後コペンハーゲンの北にダウマー一家と会うための別荘共同購入している。 アリックスは、妹ダウマー息子で甥である皇太子ニコライ(後のニコライ2世)とヘッセン大公アレクサンドラ結婚を、ダウマー皇帝アレクサンドル3世夫妻と共に反対した。アレクサンドラ大公女は、非社交的ヒステリックな癇癪引き起こす事がたびたびあり、広大な領地をもつロマノフ王朝皇后として責務果たせるのかどうか疑っていた。また、アレクサンドラ生家ヘッセン大公家では、一族次々と不吉な出来事起きていたため、ヘッセン大公家の血を引くアレクサンドラロシア帝室嫁ぎロマノフ家に不幸が及ぶのではないかと心配していた。 そんなさなか、ダウマーの夫でアリックス義弟アレクサンドル3世が病に倒れ1894年崩御した。アレクサンドル3世葬儀参列のため、夫のアルバート・エドワードと共にロシア訪問し、夫の崩御悲しみ暮れダウマー励ましたまた、ニコライ2世に、ダウマーと共に改めアレクサンドラとの結婚反対したが、アルバート・エドワード王太子ニコライ2世取り決めて結婚成立した最後までこの結婚反対したアリックスダウマーは祝うことができなかった。 その誇り高い美貌のために、アリックスは《イングランドエリーザベト》とも呼ばれたオーストリア帝国皇后エリーザベト本人アリックス美貌自身美貌のどちらが優れているか気にしており、ヴィクトリア女王晩餐会出席した際には、いち早く言葉を交わしたまた、夫のエドワード・アルバートは、エリーザベト皇后ルドルフ皇太子と仲が良かった

※この「プリンセス・オブ・ウェールズ」の解説は、「アレクサンドラ・オブ・デンマーク」の解説の一部です。
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