成立と独立
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9世紀初頭、チャンデーラ朝の祖であるナンヌカという人物がブンデールカンドを支配し、当初はプラティーハーラ朝の封臣(サーマンタ)であった。チャンデーラ朝は「月」から生まれたクシャトリヤの家系とする伝承をもつ、ラージプートの王朝と自称していた。 しばらくプラティーハーラ朝の封臣として、 デカン地方のラーシュトラクータ朝と戦い続けてきたが、チャンデーラ朝台頭の契機となったのは、まさしく916年から917年に行われたラーシュトラクータ王インドラ3世の北伐であった。 この「北伐」によって、プラティーハーラ朝の首都カナウジは陥落し、プラティーハーラ王マヒーパーラ1世はナンヌカの玄孫にあたるハルシャ(在位:900年 - 925年)の助けを得て、ようやく王位を回復するといった状態であった。 940年頃、ヤショーヴァルマン(在位:925年 - 950年)の治世、ラーシュトラクータ朝のクリシュナ3世がカラチュリ朝と同盟して侵攻し、プラティーハーラ朝はこのときカーリンジャルを失った。だが、ヤショーヴァルマンがラーシュトラクータ朝とカラチュリ朝を破り、カーリンジャルを奪還したことによってこの地を獲得し、自立する契機となった。 また、ヤショーヴァルマンのときに首都カジュラーホーにヴィシュヌ神にささげる宮殿として、ラクシュマナ寺院を建設したことが知られている。 一方、主家であるプラティーハーラ朝が衰退すると、ブンデールカンドでの独立性を確保し、10世紀後半のダンガ(在位:950頃 - 1008頃)の治世には事実上独立し、周辺諸国と争いつつ領土の拡張を押し進めた。10世紀後半のダンガ碑文にプラティーハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。 1002年にダンガ王はヴィシュワナータ寺院を建設し、後にパールシュワナータ寺院を建設している。また、カジュラーホーの西グループにチトラグプタ寺院とデーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。
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成立と独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 09:20 UTC 版)
マールワー地方は、デカン地方を支配していたラーシュトラクータ朝の王ゴーヴィンダ3世によって、9世紀初頭に獲得された領土であった。そのとき、ゴーヴィンダ3世はマールワーの統治を、パラマーラ族の族長ウペーンドラに任せたというのが、このパラマーラ朝の始まりであった。 とはいえ、北インドにはプラティーハーラ朝が存在し、デカンと北インドの間にあるこの地域をめぐり、ラーシュトラクータ朝とプラティーハーラ朝は幾度となく争った。パラマーラ朝もラーシュトラクータ朝の封臣(サーマンタ)として、不安定な支配を維持しながらも戦った。 10世紀後半、シーヤカ2世の時代、プラティーハーラ朝は徐々に衰退し、ラーシュトラクータ朝は南インドのチョーラ朝との争いに追われていた。彼はプラティーハーラ朝のマールワー領を奪い、西方ではマヒー川以西までを獲得し、マールワーの全領域を版図とした。 一方、主家のラーシュトラクータ朝はその間もチョーラ朝との争いに忙殺されていたが、クリシュナ3世が死にコーッティガ・アモーガヴァルシャが即位すると、シーヤカ2世は反旗を翻した。パラマーラ朝はラーシュトラクータ朝と交戦状態に入ったが、972年にはその首都マーニヤケータに迫るほどの勢いを見せた。このことはカリヤーニのチャールキヤ朝の創始や者タイラ2世が立ち上がる契機をつくった。 これにより、タープティ川以北の領土を獲得し、ラーシュトラクータ朝から独立を達成した。
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