サッダーム政権後のモースル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:10 UTC 版)
「モースル」の記事における「サッダーム政権後のモースル」の解説
2003年のイラク戦争で、アメリカはトルコに駐留させていた軍をイラク北部に突入させてモースルを占領し、戦略的に死活的な近郊の油田を確保するつもりだった。しかしトルコ政府はこの作戦を了承せず、2003年3月の開戦後、アメリカ軍はモースルに空爆と特殊部隊の降下を行った。バグダード陥落の2日後、米軍との交渉により、モースル防衛の任に当たるイラク軍第5軍団が降伏したことに伴い2003年4月11日に無血占領された。クルド人兵士はトルコに対する警戒のため、すぐさまモースルを占拠した。トルコはクルド人の独立への試みと、それに対するトルコ南部やシリア東部のクルド人の同情を恐れていた。アメリカの占領軍はクルド人兵士を退去させた。 2003年4月15日、米軍部隊は、モースルで反占領デモを行う群集が石を投げ始め米軍の占拠するビルに発砲したため、群集に発砲。少なくとも10人のイラク人が殺され、多数が負傷した。 2003年7月22日、サッダーム・フセインの息子、ウダイとクサイがモースルで、米軍を中心とする多国籍軍の攻撃で殺害された。一方、市街はイラク戦争(「イラクの自由作戦」)のための米陸軍第101空挺師団の作戦基地として使われた。第101空挺師団は広範囲にわたって街を調査し、他の部隊やNGO、市民の助言をもとにモースル市民を雇用しての市街再建作業に取り掛かり、電気や上下水道や道路の再生、汚水やゴミ清掃などの活動を行った。 2004年12月21日、14人の米軍兵士と4人のアメリカ人(ハリバートン社勤務)、4人のイラク人兵士がモースルの米軍飛行場内にある前線作戦基地の食堂に対する攻撃で殺害された。国防総省はイラク軍の制服の下に爆発物をつけたベストを着た人物が施設に入り自爆テロを起こした可能性が高く、死者のほかに72人がこの攻撃で負傷したと発表した。イスラム過激派組織、「アンサール・アル・スンナ軍」(アンサール・アル・イスラムの下部組織)はインターネット上で犯行声明を出した。
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