サッダーム・フセイン政権 (1979年-2003年)
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「バアス党政権 (イラク)」の記事における「サッダーム・フセイン政権 (1979年-2003年)」の解説
1979年7月16日にはサッダーム・フセインがバクルに代わって大統領に就任した。対米接近の布石のためにイラク共産党を弾圧し、小さな衛星政党のみ認めた。11月、イランアメリカ大使館人質事件。12月24日、ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻を開始(アフガニスタン紛争 (1978年-1989年))。
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サッダーム・フセイン政権
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「ターハー・ヤースィーン・ラマダーン」の記事における「サッダーム・フセイン政権」の解説
1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任する。この年に開かれたバアス党臨時会議でラマダーンは最初に演壇に立ち、党内部での裏切り行為が発覚したと語り、「背信者は陰謀が明るみに出たにも関わらず、この会議に出席している」と糾弾し、反サッダーム派や党内の政敵に対するサッダームの大粛清開始の演出に協力した。この粛清に協力したことにより、ラマダーンは第一副首相に任命された。このためサッダームの信任も厚く、1980年代後半に経済政策を巡ってサッダームと衝突した際も解任されることは無かった。 1991年には、人民軍を使って北部のクルド人と南部のシーア派・アラブ人の反政府蜂起の弾圧を指揮、その際に虐殺行為を行ったとされている。 湾岸戦争終結後の1991年3月に副大統領に任命されたが、同時に自身の権力基盤である人民軍は解体された。サッダームの長男ウダイとの対立からだと言われている。1997年に1回、1999年には2回暗殺未遂に遭ったが、その度に乗り切っている。ラマダーンは、大統領の代理として、しばしば諸外国や国際会議に出席した。シリアとエジプトとは、2000年と2001年に自由貿易協定に調印し、米のイラク封じ込めに対抗した。 対外的にはサッダーム政権内の最強硬派と目され、湾岸戦争最中の1月、クウェートにおいてイラク軍による人権蹂躙が対外的に報道されると「クウェートに人道調査にくる連中は不具にする」と脅迫し、2月にはイラクと対峙する各国首脳を「ブッシュ、メージャー、ミッテランと残りの汚い小人、協力者ホスニーと裏切り者ファハド」と呼び、彼らの暗殺を要求。湾岸戦争終結直後には「勝利したのはイラクだ」と発言するなど挑発的な言動が目立った。 1997年の国連の武器査察団の活動の妨害を指示したとされ、1998年にはアルカーイダのNo.2アイマン・ザワーヒリーをイラクに招待すると語ってアメリカを挑発。また、イラクとクウェートとの国境は未画定であると発言し、アラブ連盟から非難された。 ブッシュ政権についても「ブッシュはシオニスト。ユダヤ人よりシオニストらしいシオニストだ」と述べ、またイラク戦争開戦前、サッダーム・フセインの亡命を提案したサウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相に「貴様はアメリカの手先だ」「地獄に落ちろ!」と怒鳴りつけ、当時の国連事務総長のコフィー・アナンを「ワシントンとロンドンに支援された植民地主義者の高等弁務官」と罵倒した。 また、ブッシュ政権がイラクの体制転換のために、サッダーム個人の暗殺を情報機関に認可したとの報道が伝わると、2002年6月に開かれた緊急会議でラマダーンは、「イラクの英雄達は何千人単位で人間爆弾に志願するだろう。アメリカを吹き飛ばすためなら」と発言したとされる。 2002年10月には、イラク戦争推進派だったディック・チェイニー副大統領との「決闘」を要求した。 辛辣な批判は日本にも向けられ、2002年10月に国連制裁の解除に前向きな中国を評価する一方で、「日本はアメリカの属国か、それ以下」と発言したり、2003年1月にはラマダーンと会見した首藤信彦議員に対し「日本は米英に次いでイラクに敵対的だ。邪悪な米政権の衛星国だ」と発言し、対イラク制裁に加わっている日本を非難した。また、イラク戦争開戦前にはジャーナリストの田原総一朗の取材にも応じ、この模様はサンデープロジェクトでも放送された。イラク戦争では、3月20日の空爆で死亡したとの報道が流れたが、23日に外国記者団の前に姿を見せ健在をアピール。アラブ諸国民にアメリカに対する「ジハード」参加を呼びかけ、自らアラブ人義勇兵の責任者となった。 4月9日にバグダードが陥落すると身を隠し、潜伏中のサッダームと旧政権残党勢力との間の「連絡役」に任命されていたとされる。また、政権崩壊直前に、潜伏生活に備えてモースル郊外に2件の農家と住宅5棟を購入していた。
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