国境画定問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:41 UTC 版)
現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833(英語版)に基づいて画定された。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。
※この「国境画定問題」の解説は、「湾岸戦争」の解説の一部です。
「国境画定問題」を含む「湾岸戦争」の記事については、「湾岸戦争」の概要を参照ください。
国境画定問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)
満州地域の国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。対ソ連国境に関しては、清とロシア帝国の間のアイグン条約・北京条約などで画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)については、国境とは別に航路標識に関する水路協定も1923年に中ソ間で締結されていたが、これも中国に不利な内容であったため、問題となっていた。対モンゴル国境に関しても、清の時代の国内行政区分が事実上の国境線となっていたが、草原に人為的に設けられた境界であるのに標識が風化で失われるなど不明確化していた。 満州国建国後も、ソ連が満州国を承認していなかったためもあり、領土問題の外交決着はできないでいた。特に対モンゴル国境については、日本側がシベリア出兵中の戦利地図に基づいて、従来の行政区分とは異なるハルハ川などを国境線と認識していて大きなずれがあったが、この見解の相違すら十分確認されない状態だった。 なお、満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きていた。そこで、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を進めつつあった。
※この「国境画定問題」の解説は、「日ソ国境紛争」の解説の一部です。
「国境画定問題」を含む「日ソ国境紛争」の記事については、「日ソ国境紛争」の概要を参照ください。
- 国境画定問題のページへのリンク