国境標石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 07:00 UTC 版)
日露戦争後の1905年、ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することとなり、翌1906年から1908年に掛けて、参謀本部陸地測量部の陸地測量師矢島守一を日本側の測量責任者とし、天文測量による日露両国の国境画定作業が行なわれ、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡までの、おおよそ130kmの間に4基の天測境界標、17ヶ所に平均6kmごとに中間標石、19ヶ所に木標が建てられた。 標石の大きさは高さ64、正面幅30~50、側面幅18~30cm程度で将棋の駒のような形になっている。標石の一面には菊花紋章(菊の紋章)と「大日本帝国」、「境界」の文字、他面にはロシア帝国の双頭鷲紋章とキリル文字でロシア(РОССІЯ)、1906、グラニーツァ(ГРАНИЦА 国境)の文字、側面には「天第1一~四號 明治三十九年」、反対側面もアストロ(АСТР 天測)の刻字がある。 なお標石の頂部にある「模造」の文字は、新宿区絵画館前に保存されているレプリカのみで、樺太に設置されていた標石には「模造」の文字はない。
※この「国境標石」の解説は、「50度線」の解説の一部です。
「国境標石」を含む「50度線」の記事については、「50度線」の概要を参照ください。
- 国境標石のページへのリンク