国境画定交渉
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停戦の合意に基づき9月24日から30日までソ連軍占領区域での日本軍の遺体収容作業が行われた。日本軍は100名一組の遺体回収部隊10個を投入し、合計で6,281名の遺体を収容した。日本軍側からは埋葬していたソ連兵の遺体38名が引き渡された。互いの捕虜交換も9月下旬と1940年の4月の2回にわたって実施され、日本軍164名、ソ連・モンゴル兵89名の捕虜が交換された。 満蒙国境画定会議は1939年11月から1940年1月30日までチタで8回、ハルビン市で8回行われた。ソ連・モンゴルの主張しているノモンハン地域での境界は、清朝の行政区界を継承した従来からの満州国の境界ほぼ同じであり、相手側の主張を受け入れても決して負けたことにはならず不名誉ではないとする満州国側(といっても満州国外交部の日本人)の主張に対し、関東軍は「将兵が多数倒れた戦場をソ連軍が占領しているのを認めることはできない」と交渉決裂も辞さないとの強硬な姿勢であったが、満州国代表として会議に参加していた満州国外交部政務司長亀山一二(日本外務省から出向)が関東軍の代表三品隆以少佐を説き伏せ、ソ連側の主張を容れることとし、調印を行うところまでこぎつけた。 しかし調印当日になって、ソ連・モンゴル代表団がモスクワから交渉中止の指示があったとのことで帰国してしまった。しかし、会議の全権代表であった亀山が太平洋戦争後に語ったところによると、関東軍参謀を更迭されていた辻が、交渉を妨害しようと白系ロシア人を使ってソ連・モンゴル代表団に対し殺害予告を行い、代表団がおびえて帰国したとのことであるが、真相は不明である。 2回目の会議は1940年3月5日からモスクワで開催された。東郷とモロトフの間でソ連軍参謀本部が発行した20万分の1の地図により協議が進められ、6月9日に大筋合意できたため、9月から現地での測量による詳細な確定作業に入った。しかし目印に乏しい草原と砂丘ばかりの土地で、モスクワでの協議で国境線の目印とされたのがノムンハーネイ・ブルド・オボーをはじめとするオボーであったが、土地に定着するものではないため、既に存在しないものも多く、国境線画定には大変な労力を要した。この時もノモンハン以北の地区では、引き続きソ連・モンゴル側の姿勢はかたくなで、特にモンゴル代表のスミルノフが「モンゴル兵の鮮血に依り彩られたこれ等砂丘は一歩なりとも譲らぬ。以後は日満委員らの立ち入りを禁ずる」と一方的に通告し、激怒した日本代表団が会議場から退出してしまったため、第1回の会議と同様に物別れに終わり、交渉は中断してしまった。この現地調査の時に、満州国代表団の1人北川四郎は、ソ連側がバルガとハルハの旧境界線を極めて忠実に遵守していることに気が付いたが、ノモンハン戦末期であれば、ソ連軍は壊滅した第23師団を追って、満州国領内まで進撃することは十分であったのに、それを行っていなかったことに驚かされている。 日本代表団は、ソ連側がノモンハン以北に強く拘っているのに対し、停戦前に日本軍が確保した南部のハンダガヤ - アルシャン地区については、日本軍の占領が既成事実化しており、さほど固執していないと判断し、中北部で譲歩する代わりに南部で埋め合わせることとした。特に関東軍は南部アルシャン地区の防衛のため、国境線とされていた南部ハロン・アルシャン地区山岳地帯の稜線ではなく、稜線よりモンゴル側に入り込んだ国境線としたいと考えており、代表団に軍の主張を譲らないようにという指示があった。そこで北川は一計を講じ、南部に展開していた第7師団師団長に、稜線上の2拠点1401高地と1340高地の占領を提案したところ、師団長も同意見であり、さっそく同高地を占領した。その後ソ連軍も偵察にきて高地を占拠する日本軍と小競り合いになったが、日本軍は高地を譲ることはなかった。日本代表団はソ連とモンゴルからの抗議を覚悟していたが、最後まで抗議を受けることなく、北川の目論見通り、稜線をモンゴル側に2kmも入り込んだところに国境線を設定することができ、満州国は得をすることになった。 その後、一旦中断した国境画定会議は、1941年4月の日ソ中立条約の締結により再開されることとなったが、条約締結によりソ連の姿勢もかなり軟化していた。これまでは未測量部分のあるソ連軍の20万分の1の地図にて国境画定作業を行ってきたが、より精密な関東軍の10万分の1の地図を使用することをソ連側は同意し、またモンゴル側による、国境線や屈折点の目印としてオボーを利用するという主張に対しても、オボーは永久に定着するものではないため、日本側の主張により、オボーの代わりに石柱と標識目柱を設置し、国境線や屈折点の目印とすることとした。さらに、ナチス・ドイツがソ連に攻め込むと(独ソ戦)、ソ連は極東の国境画定に関わる余裕を失い、ほぼ日本側の主張に従い作業が進んでいった。そして、ノモンハン以北は満州国外交部の調査通りに従来の国境線(停戦時のソ連軍の占領地とほぼ同じ)で、南方のハンダガヤ地区は停戦前に日本軍が確保した土地は満州国領土とする、満州国に有利な総合議定書が1941年10月15日にハルビンにおいて調印された。モンゴルはこの交渉により1,140 km2を領土を失ったと悔やんでおり、ノモンハン戦を領土の争奪の視点から評価すると、日本側の勝利とする意見もある。
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