国境画定交渉とは? わかりやすく解説

国境画定交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「国境画定交渉」の解説

停戦合意に基づき9月24日から30日までソ連軍占領区域での日本軍遺体収容作業が行われた。日本軍100一組遺体回収部隊10個を投入し合計で6,281名の遺体収容した日本軍側から埋葬していたソ連兵遺体38名が引き渡された。互い捕虜交換9月下旬1940年4月の2回にわたって実施され日本軍164名、ソ連・モンゴル89名の捕虜交換された。 満蒙国境画定会議1939年11月から1940年1月30日までチタで8回、ハルビン市で8回行われたソ連・モンゴル主張しているノモンハン地域での境界は、清朝行政区界を継承した従来からの満州国境界ほぼ同じであり、相手側の主張受け入れて決し負けたことにはならず不名誉ではないとする満州国側(といって満州国外交部日本人)の主張対し関東軍は「将兵多数倒れた戦場ソ連軍占領しているのを認めることはできない」と交渉決裂辞さないとの強硬な姿勢であったが、満州国代表として会議参加していた満州国外交部政務長亀山一二(日本外務省から出向)が関東軍の代表三品隆以少佐説き伏せソ連側主張容れることとし調印を行うところまでこぎつけた。 しかし調印当日になってソ連・モンゴル代表団モスクワから交渉中止指示があったとのこと帰国してしまった。しかし、会議全権代表であった亀山太平洋戦争後に語ったところによると、関東軍参謀更迭されていた辻が、交渉妨害しよう白系ロシア人使ってソ連・モンゴル代表団対し殺害予告行い代表団おびえて帰国したとのことであるが、真相不明である。 2回目会議1940年3月5日からモスクワ開催された。東郷モロトフの間でソ連軍参謀本部発行した20分の1の地図により協議進められ6月9日大筋合意できたため、9月から現地での測量による詳細な確定作業入った。しかし目印乏しい草原と砂丘ばかりの土地で、モスクワでの協議国境線目印とされたのがノムンハーネイ・ブルド・オボーはじめとするオボーであったが、土地定着するものではないため、既に存在しないもの多く国境線画定には大変な労力要した。この時もノモンハン以北地区では、引き続きソ連・モンゴル側の姿勢はかたくなで、特にモンゴル代表のスミルノフが「モンゴル兵の鮮血に依り彩られこれ等砂丘一歩なりとも譲らぬ以後日満委員らの立ち入り禁ずる」と一方的に通告し激怒した日本代表団が会議場から退出してしまったため、第1回会議同様に物別れ終わり交渉中断してしまった。この現地調査時に満州国代表団1人北川四郎は、ソ連側バルガハルハ旧境界線極めて忠実に遵守していることに気が付いたが、ノモンハン末期であればソ連軍壊滅した第23師団追って満州国領内まで進撃することは十分であったのに、それを行ってなかったことに驚かされている。 日本代表団は、ソ連側ノモンハン以北強く拘っているのに対し停戦前に日本軍確保した南部のハンダガヤ - アルシャン地区については、日本軍の占領既成事実化しており、さほど固執していないと判断し中北部譲歩する代わりに南部埋め合わせることとした。特に関東軍南部アルシャン地区防衛のため、国境線とされていた南部ハロン・アルシャン地区山岳地帯稜線ではなく稜線よりモンゴル側に入り込んだ国境線としたい考えており、代表団に軍の主張譲らないようにという指示があった。そこで北川一計講じ南部展開していた第7師団師団長に、稜線上の2拠点1401高地と1340高地占領提案したところ、師団長同意見であり、さっそく同高地占領したその後ソ連軍偵察にきて高地占拠する日本軍小競り合いになったが、日本軍高地を譲ることはなかった。日本代表団はソ連モンゴルからの抗議覚悟していたが、最後まで抗議を受けることなく北川目論見通り稜線モンゴル側に2kmも入り込んだところに国境線設定することができ、満州国は得をすることになったその後、一旦中断した国境画定会議は、1941年4月日ソ中立条約締結により再開されることとなったが、条約締結によりソ連姿勢もかなり軟化していた。これまでは未測量部分のあるソ連軍20分の1の地図にて国境画定作業行ってきたが、より精密な関東軍10万分の1地図使用することをソ連側同意し、またモンゴル側による、国境線屈折点の目印としてオボー利用するという主張に対しても、オボー永久に定着するものではないため、日本側の主張により、オボー代わりに石柱標識目柱設置し国境線屈折点の目印とすることとした。さらに、ナチス・ドイツソ連攻め込むと(独ソ戦)、ソ連極東国境画定関わる余裕失いほぼ日本側の主張従い作業進んでいった。そして、ノモンハン以北満州国外交部調査通り従来国境線停戦時のソ連軍占領地とほぼ同じ)で、南方のハンダガヤ地区停戦前に日本軍確保した土地満州国領土とする、満州国有利な総合議定書1941年10月15日ハルビンにおいて調印された。モンゴルはこの交渉により1,140 km2領土失った悔やんでおり、ノモンハン戦を領土争奪視点から評価すると、日本側の勝利とする意見もある。

※この「国境画定交渉」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「国境画定交渉」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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