駐露特命全権公使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:43 UTC 版)
「樺太・千島交換条約」も参照 ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁することとなったマリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉が1873年10月に病死。榎本が代役として1874年(明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。併せて1月14日、日本最初の海軍中将に任命された。同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月サンクトペテルブルクに着任。6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日にはクロンシュタット軍港を視察した。領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り、ロシア外務省アジア局長ピョートル・ストレモウホフ(ロシア語版)との交渉の末、1875年(明治8年)5月7日、外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した。 その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した。またロシア滞在中、幕末の遣日使節であったエフィム・プチャーチンらと親睦を深めた。
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