国境確定交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 07:40 UTC 版)
日露修好通商条約により、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれたが、樺太(サハリン)については国境確定できなかった。その後数度の交渉を経て、1867年3月にサンクトペテルブルクで日露間樺太島仮規則が調印され、樺太の日露両属の確認と両国人の全島自由往来などが約されたが、この頃より樺太におけるロシアの南下が積極化し、亜庭湾の占拠、日本人漁民の基地クシュンコタン付近にまで駐営施設を設営するまでに至り、日露両国人の紛争が頻発するようになった。 日本では明治維新後、新政府において様々な論議がなされたが、開拓次官黒田清隆は樺太経営の不利益を説き、特に1873年の征韓派の下野後には、朝鮮へのロシアの介入の警戒、樺太ではロシアに対応できないことが認識されてきたため樺太放棄論が強まった。1874年1月駐露公使に任命された榎本武揚は、サンクト・ペテルブルクにおいてロシア外務省アジア局長スツレモフとの交渉を重ね、ロシア外相ゴルチャコフとの間に樺太・千島交換条約(Петербургский договор(サンクト・ペテルブルク条約)を締結。これにより千島列島全島は日本領、樺太(サハリン)はロシア領とする国境確定が行われた。
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