ミュンヘン会談とズデーテン併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:36 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の記事における「ミュンヘン会談とズデーテン併合」の解説
詳細は「ミュンヘン会談」を参照 チェンバレンは調停に動き、ヒトラーと会談した上でチェコスロバキア政府に屈服を強要した。9月21日、チェコスロバキア政府は屈服しズデーテンの割譲交渉に応じた。9月22日、かつてチェコスロバキアにスロバキアとカルパティア・ルテニアを奪取されたハンガリー王国が両地域の割譲を要求した。さらにポーランドもテッシェン全域の割譲を要求し、動員を行った。同日にチェンバレンと会談したヒトラーは、両国の問題も同時に解決しなければならないとして交渉を拒否した。ヒトラーはズデーテンの即時併合とズデーテン地域の動産を望んでおり、時間のかかる国境確定交渉は望まなかった。ヒトラーは29日を期限とする最後通告を行った。ここにいたってチェンバレンはチェコスロバキアに動員を許可し、フランスも動員を行った。しかし、イタリア王国のムッソリーニが仲介に動いたために、最後通告の期限は延長され、29日にミュンヘンで独仏英伊の首脳会談が行われた。 会談の結果、ヒトラーの要求はほぼ完全に通り、チェコスロバキアはズデーテン全域を10月10日までにドイツに明け渡すことが決まった。また、ハンガリーとポーランドの要求地域は人民投票によって帰属が決定されることになった。ベネシュ大統領はロンドンに亡命し、エミール・ハーハが後継大統領となった。以降の政府はチェコスロバキア第二共和国と呼ばれる。チェコスロバキア国内には政府に対する失望感が広まり、民族運動が激しくなり始めた。
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