ミュンヘン一揆後のナチ党解散期
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「ユリウス・シュトライヒャー」の記事における「ミュンヘン一揆後のナチ党解散期」の解説
1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆は失敗。シュトライヒャーも拘留され、ニュルンベルク市から教職の停職処分を受けた。しかしすぐに釈放され、政治活動を再開した。ヒトラーの代理アルフレート・ローゼンベルクによって設立されたナチ党の偽装組織「大ドイツ民族共同体」に参加。まもなくヘルマン・エッサーとともに同組織の指導者となった。更にかつての突撃隊員を集めて「帝国鷲民族同盟」を組織した。大ドイツ民族共同体は他のナチ残党が創設したグループより過激な集団で、より激しい反ユダヤ主義、議会政治反対思想、労働者寄りの政策を掲げていた。 1924年8月にナチ残党勢力が集まって開いたヴァイマル大会でエーリヒ・ルーデンドルフがヒトラー不在の間の指導者である事が確認され、また選挙のための統一政党「国家社会主義自由運動」が創設されることとなった。しかし議会政治に反対するシュトライヒャーの大ドイツ民族共同体はこれと対立するところが多かった。大ドイツ民族共同体は労働者を中心に支持されていたため、一時ドイツ共産党と同盟を結ぼうともしているが、共産党が反ユダヤ主義思想に反対したため、決裂している。 大ドイツ民族共同体は、1924年12月7日の国会選挙への参加や国家社会主義自由運動との選挙協力は拒んだが、同日に行われたバイエルンでの地方選挙には参加し、ニュルンベルク市において2万5000票を獲得してニュルンベルク市議会に6議席を獲得した。シュトライヒャーも市議会議員となった。これはシュトライヒャーにとってちょっとした勝利だった。
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