満蒙国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
モンゴルは、1911年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部およびダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)を確保するに留まり、モンゴル南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権、1924年の人民共和国への政体変更があった。これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中に治めた中華民国歴代政権との間では、ハルハ東端と新バルガの境界に問題が生ずることはなかった。 旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張し、本事件の戦場域は、国境紛争の係争地となった。これは、日本陸軍(特に関東軍)が、シベリア出兵の戦利品であるロシア製.mw-parser-output .sfrac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .sfrac.tion,.mw-parser-output .sfrac .tion{display:inline-block;vertical-align:-0.5em;font-size:85%;text-align:center}.mw-parser-output .sfrac .num,.mw-parser-output .sfrac .den{display:block;line-height:1em;margin:0 0.1em}.mw-parser-output .sfrac .den{border-top:1px solid}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1/84,000地図に基づいて、ハルハ河が境界と認識していたことによる。 しかし、1934年に満州国外交部が委託した日本人東洋史学者矢野仁一、和田清、稲葉岩吉が収集した古文書や、1937年の6月から10月にかけて満州国外交部、治安部、興安北省の3機関が現地に入って、参謀本部が作成した1/100,000の地図を測図し直して、地元の古老などから証言をとりながら、収集した文献資料にある境界オボー跡の発見と、それを結び国境線を確認するといった現地調査を行い、モンゴルが主張する国境線は「歴史的証拠」に基づいているということが確認できたが、関東軍はその調査結果を一顧だにすることなく、ひたすらに自分らが主張する国境線の実効支配を目指していた。 モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年から断続的に行われたが(満州里会議)、1937年9月以降途絶した。 満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期、それぞれ極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの停戦交渉担当者たち(→満州里会議)をそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。
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