戦争準備行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:36 UTC 版)
関東軍は、北満で幾度か軍事演習を実施していたが、中でも、独ソ戦(1941年6月22日開戦)が始まった直後の1941年7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、実際には単なる軍事演習ではなく、演習とみせかけ、そのままソ連侵攻による開戦を意図した関東軍による軍備増強政策だった。独ソ戦が始まり緒戦はドイツ軍が圧倒的優位に立つと、松岡洋右外務大臣や原嘉道枢密院議長らをはじめ日本政府内では、まずは日独同盟を重視し、ドイツと協力してソ連を挟撃すべしという主張が勢いを持った(北進論)。近衛文麿総理大臣はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持。これにより動員令が発令され、関東軍は戦時定員の14個師団および多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す74万以上の大兵力となった。 陸軍参謀本部がソ連開戦の前提条件としたのは、極東ソ連軍の兵力が半減することであったが、極東ソ連軍の兵力が減少することはなかった。1941年7月28日の南部仏領インドシナ進駐などを契機としたアメリカやイギリス、オランダとの緊張状態が加速したこともあり、日本政府はソ連方面よりも東南アジア方面へと政策の重点を移して行った(南進論)。1941年8月3日、関東軍は田中新一作戦部長と有末二十班長らがソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われるも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。元々の日本の経済力・輸送力や厳しくなっていく対日貿易規制等により陸軍においてもソ連開戦に必要としていただけの十分な量の物資が集めることが出来なかったとされる。これらの事情から、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念した。その後、兵力は充実させたが南方進出方針の決定により、対ソ戦は行われず満蒙国境警備のみを行うに留まった。太平洋戦争開始によっても当初はソ連開戦の計画は消滅したわけではなく、ポート・ダーウィン攻略後は対ソ戦を行う予定があったことが東京裁判の過程で当時の極秘情報によるとして明らかにされている。その後、太平洋戦争の中期から島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた。末期には本土決戦のためにさらに兵力・資材を引き抜き、満州在留邦人でその穴を埋めていった(根こそぎ動員)。 結果的に、関特演で集められた兵員・資材は大戦末期まで決戦を迎えることなく、本来とは異なる役目を果たすことになった。[要出典]
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