戦争準備
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1935年以来ソ連最大の仮想敵はドイツだった。ドイツ軍の侵入に備えた防衛計画の研究と作成が1938年に始まった。ソ連の欧州部はプリピャチ沼沢地によって南北に分断され、赤軍参謀本部は北の白ロシアに重点を置くのか、南のウクライナに重点を置くのか選択を迫られていた。参謀総長ボリス・シャポシニコフの計画案では南北どちらにも重点を置き、戦力を均衡に配置することになっていた。1940年7月には参謀本部作戦部長代理のアレクサンドル・ヴァシレフスキー少将がミンスク~スモレンスク~モスクワ軸を重視する防衛計画を提示した。この計画ではドイツ軍だけでなく、日本、ハンガリー、ルーマニア、イタリアなど同盟諸国の参戦も想定され、枢軸国軍270個師団が展開すると予測された。ヴァシレフスキーはドイツ軍がモスクワ方面に歩兵123個師団と装甲師団10個を差し向けると予想、赤軍戦闘部隊の大半を白ロシアに配置した。しかしスターリンは南を重視していた。国防人民委員チモシェンコはヴァシレフスキー案を退け、8月にメレツコフが参謀総長に就任すると計画案は大幅に改訂され、10月には南のウクライナに重点を置く新たな防衛計画が採用された。この10月計画の正しさを証明するために、12月に図上演習が実施されたが、参謀本部はジューコフに叩きのめされた。この演習の結果、ジューコフが参謀総長に昇進し、防衛計画は大幅に見直された。ジューコフはドニエプル川に予備宣戦を配置して決戦兵力とする新たな防衛計画を立案した。結果的にこの予備兵力がドイツ軍の侵攻を阻止することになる。ジューコフが手直しを加えた計画が動員計画41(MP41)として正式に了承されることになる。MP41では171個師団が3つの作戦梯団に編成され、縦深的に配置された。第一梯団は国境要塞を守備する援護兵力であり、軽装備の57個師団が配置された。第二梯団・第三梯団は決戦兵力として多くの兵力が集中され、第二梯団に52個師団、第三梯団に62個師団が配置され、20個機械化軍団の大部分も第二・第三梯団に配置された。これらの兵力は戦時には5つの戦線に転換し、前進兵力となる。さらに前進兵力とは別に完全に独立した戦略梯団が予備戦線として、ドニエプル~西ドヴィナ川のラインに配置された。ドイツはこの兵力の存在を開戦まで掴めなかった。赤軍は前方に戦力を集中させてしまい、またドイツ軍の主軸をウクライナだと誤認してしまった。ドイツ軍は国境から近い場所での包囲殲滅と白ロシアへの主攻を決定していたので、赤軍は状況判断を完全に見誤っていた。1941年4月から6月にかけて赤軍は急ピッチで動員計画を進め、極東や内陸部の軍管区から西部国境に戦力を移動させた。また80万人の予備役を招集して100個師団を編成し、国境要塞地帯の守備に配置した。しかし、急遽動員された影響で国境に集められた赤軍は装備も練度も訓練も貧弱で、数ですらドイツ軍に劣っていた。赤軍の作戦概念は依然としてトゥハチェフスキーの縦深作戦理論に基づく攻撃的なものであり、防御に対する指揮と作戦計画を怠っていた。またスターリンの一寸の土地も渡すなという政治的な方針で、赤軍は国境線に沿った要塞防御に拘り、ロシア内戦期のような流動的な機動防御が封じられた。各指揮官も処罰を恐れて全ての地点に均衡に戦力を配置し、重要地点への兵力集中を怠った。要塞地帯もポーランド占領により国境が西に移動したため、防衛線の書き直しを余儀なくされ、開戦までに新しい要塞線の建設は間に合わなかった。ジューコフは旧国境での防衛を主張したが許されず、やむをえない判断で一部の予備兵力のみを配置した。またドイツの装甲集団のような単独で敵を突き破る機甲兵力単位を欠き、機械化軍団も各師団が防衛を支援する名目で分散して配置された。縦深作戦を実施しようにも機械化軍団は各地に分散されて集中が困難であり、兵站面でも作戦の実施は不可能だった。各機械化軍団の装備も定数を充足した軍団はほぼなく、旧式の軽戦車のみであり、T-34やKVのような新鋭戦車が配備された軍団も、異なった車種が混雑し連携は困難だった。1941年6月当時、赤軍は過渡期にあり、組織・指揮・装備・配置・防衛計画のどれもが途次にあった。赤軍の戦力が最も脆弱だったその時に、絶頂期にあったドイツ軍が攻撃を仕掛けてきたのだった。
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戦争準備
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「パレスチナ内戦(英語版)」も参照 この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーやアブドゥル=カーディル・アル=フサイニー(英語版)などが率いるアラブ救世軍(英語版)が結成され、ファウズィー・アル=カウクジ(英語版)率いるアラブ解放軍(英語版)も結成された。また、結成間もないアラブ連盟の初代事務総長に就任したアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム(英語版)はユダヤ系の商店やシナゴーグの破壊などの反ユダヤ主義行為を非難する人物で知られたが、この状況について『個人的にこれは排除の戦争となってモンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う、ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』と懸念を示し、あくまで自治権を視野に入れた一国家でのアラブ人とユダヤ人の平和的な共存を求めた。 ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。中でもイギリス軍から盗み出したM4中戦車およびクロムウェル巡航戦車計6輌は砂漠での戦闘を制するための貴重な機甲戦力となった。 1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件やハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。
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