スウェーデンの戦争準備
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「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の記事における「スウェーデンの戦争準備」の解説
1740年夏、フィンランドにおけるスウェーデン軍の総指揮官であったカール・クロンシュテット将軍(Carl Cronstedt)は戦争に反対したことで更迭された。代わりにカール・エミール・レーヴェンハウプト(英語版)が任命されたが、当時フィンランドの守備は防御費の大半が他の地域に転用されたため壊滅的な状態にあった。大北方戦争の経験があったにもかかわらず、何の準備も行われなかった。結局、フィンランドに割り当てられた資金は守備の強化より侵略戦争の準備に使われた。 スウェーデンの計画はまずヴィボルグを占領して、続いてサンクトペテルブルクへ進軍する、というものだった。この行軍の目的はサンクトペテルブルクを脅かし、そこでフランスとスウェーデンの外交官がクーデターを仕掛けて親オーストリアのアンナ・レオポルドヴナ政府を転覆させることにあった。クーデター自体は12月におこったが、ツァーリに即位したエリザヴェータ・ペトロヴナはバルト総督領(英語版)をスウェーデンに返還する約束を破って、宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンの指導のもと、戦争を継続した。 スウェーデン軍がヴィルマンストランドやフレデリクスハムン(英語版)などロシアとの国境地帯で展開する一方、トマス・フォン・ラジャリン(スウェーデン語版)率いる戦列艦10隻とフリゲート4隻とアブラハム・ファルケングレン(スウェーデン語版)率いるガレー船20隻で構成されたスウェーデン艦隊は1741年5月20日に国境付近の島嶼へ移動した。艦隊がそこで待機している間に疫病が発生、ラジャリンが病死して艦隊がほぼ動けない状態になった。スウェーデンは侵攻の予定があった7月末にロシアに宣戦布告したが、艦隊が動けず、陸軍もまだ集結していなかったため宣戦布告が侵攻より先に行われてしまった。レーヴェンハウプトは宣戦から2か月にようやくフィンランドに到着、その間に軍の指揮がヘンリク・マグヌス・フォン・ブッデンブロック(英語版)に委ねられたためスウェーデン軍は一向に動かなかった。
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