サンクトペテルブルクへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:10 UTC 版)
「エフゲニー・プルシェンコ」の記事における「サンクトペテルブルクへ」の解説
1993年、ソビエト連邦の崩壊の煽りを受け地元に一つしかないスケートリンクが閉鎖される。両親はこれを機に息子に普通の小学生の暮らしをさせようと考えたが、当時のコーチ、ミハイル・マコヴィーエフはサンクトペテルブルクのアレクセイ・ミーシンの元へ行くよう勧めた。まだ幼い我が子を手放したくない両親は反対したが、マコヴィーエフは有望選手のスポーツキャリアを終わらせる権限は親には無いと強く説得。また両親は息子のスポーツへの情熱を知り彼をミーシンに託す事に同意した。 11歳で単身サンクトペテルブルクへ移住。昼間から酒や薬や賭け事に溺れる不特定多数が出入りする共同アパートの一角で生活した。隣人女性は子供の同居人に構わず男たちを部屋に連れ込んだ。見かねたミーシンは自分のアパートや自宅、振付師の家に彼を住まわせた。それまでの栄養状態が悪かったこともあり体格が悪かった当時のプルシェンコの印象を、ミーシンは「痩せっぽちで脂のない緑色のチキンのようだった」と語っている。1年後に母親がやって来て二人で暮らし始めるも母親にはサンクトペテルブルクでの労働許可がなく、一家の稼ぎ頭の一人を失ったプルシェンコ家は更に困窮を極め日々の食べ物にすら事欠くようになった。 14歳で世界ジュニア選手権を制すと以後は一家の稼ぎ頭になった。 16歳になると以前から貯めていた賞金を使い、家族で暮らすためのマンションを購入。離れて暮らしていた父親と姉夫妻をヴォルゴグラードから呼び寄せた。 このような決して順風満帆とは言えない生い立ちながらも本人は至って明るく陽気な性格で知られる。アイスショーやエキシビションでは女装 や着ぐるみ でパフォーマンスを見せたり、トム・ジョーンズの"Sex Bomb"に合わせ、偽の筋肉が縫い付けられた肌色の襦袢と金色のビキニブリーフだけという滑稽ないでたちでストリップダンスを披露するなど、奇抜な演技も楽しげにこなす。
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