サンクムの硬直化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:24 UTC 版)
しかしサンクムは王制社会主義体制下の総選挙で常に全議席を独占、そうしていくうちに次第にその社会主義は縁故主義(事実上は縁故資本主義と同じ)の色彩も強め、国営企業はサンクムの幹部が支配するようになっていった。それによって当初の仏教社会主義の理念から乖離していき、政情も不安定化していった。 1967年4月、バタンバン州のサムロート(サムラウト)で政府による余剰米の安価な強制買い付け(フランス語: ramassage du paddy)に反対する農民との間で衝突が起き、カンプチア共産党は反米反政府のビラを撒いて暴動を煽動した。サムロート周辺の鎮圧作戦は数か月間続き、サンクムの内部でロン・ノル首相らの右派や秘密警察の勢力が強まりキュー・サムファンは地下潜行を余儀なくされるなど、左派との対立・衝突は強まっていく(ただロン・ノルはその後に交通事故で一時引退を余儀なくされ、シハヌークはこれを機に右派とのバランスを取るために左派の人物を政権に登用している。このときの後任の首相はソン・サンであった)。 それでも後の悲惨なカンボジア内戦に比べれば、シハヌークとサンクムが統治した時期は相対的に平穏だったとされており、実際に強制買い付けなどがあったとはいえ、豊富な農業生産高を誇る食料輸出国でもあった。
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