イルクーツクからサンクトペテルブルクへとは? わかりやすく解説

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イルクーツクからサンクトペテルブルクへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:41 UTC 版)

若宮丸」の記事における「イルクーツクからサンクトペテルブルクへ」の解説

若宮丸乗組員14人はイルクーツクで約8年間を過ごした。ここには、日本人二人先達がいた。二人新蔵庄蔵といい、伊勢国奄芸郡白子浦から出帆し漂流してアリューシャン列島漂着した神昌丸の乗組員だった。神昌丸の大黒屋光太夫ら3名はロシア皇帝エカチェリーナ2世許し得てアダム・ラクスマン使節と共に日本へ帰国していたが、新蔵庄蔵ロシア帰化して洗礼受けてイルクーツク日本語学校教師務めていた。新蔵庄蔵通訳として若宮丸乗組員世話したが、庄蔵はまもなく病気により没したイルクーツクでは、若宮丸乗組員のうち善六辰蔵、民之助、八三郎の4人が洗礼受けてロシア帰化した若宮丸乗組員にはロシア衣服と、月々金貨3枚支給された。また、若宮丸乗組員中にはの手伝い小遣いを稼ぐ者もいた。左平日本流の酒造り商売をし、儀兵衛は店の手伝いからロシア人信用得て、金を借りてそれを元手金貸しをし、左太夫日本式の網を作ってを捕り、それを売ったという。1799年4月2日最年長の吉郎次が72歳病死し異国人墓地葬られた。 1803年に、ロシアから日本使節派遣することが決まり若宮丸乗組員日本送還知らせイルクーツク届いた同年4月28日若宮丸乗組員13名とロシア役人通訳伊勢新蔵が7台の馬車ロシア帝国首都サンクトペテルブルクへ向けて出発した一行トムスクトボリスクカザンモスクワ経てサンクトペテルブルクへ向かったが、その途中、左太夫清蔵が病のためイルクーツク戻され、銀三郎も病のためペルミ残った若宮丸乗組員10名がサンクトペテルブルクへ着いたのは同年6月だった。一行は、大臣ニコライ・ペトロヴィッチ・ルミャンシェフ伯の屋敷滞在した。そして、同年7月4日若宮丸乗組員10名はロマノフ朝第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世謁見した。津太夫儀兵衛太十郎左平帰国希望し善六辰蔵、八三郎、民之助、茂次郎、巳之助はロシア留まることを希望してアレクサンドル1世は4人の帰国認め、6人のロシア残留を「勝手に致すべし」とした。謁見後、若宮丸乗組員達は皇帝と共に軽気球飛行実験見学し、またサンクトペテルブルク滞在中に美術館博物館劇場病院寺院など見て回ったという。なお茂次郎と巳之助は後に洗礼受けた

※この「イルクーツクからサンクトペテルブルクへ」の解説は、「若宮丸」の解説の一部です。
「イルクーツクからサンクトペテルブルクへ」を含む「若宮丸」の記事については、「若宮丸」の概要を参照ください。

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