イルクーツクからサンクトペテルブルクへ
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「若宮丸」の記事における「イルクーツクからサンクトペテルブルクへ」の解説
若宮丸の乗組員14人はイルクーツクで約8年間を過ごした。ここには、日本人の二人の先達がいた。二人は新蔵と庄蔵といい、伊勢国奄芸郡の白子浦から出帆し、漂流してアリューシャン列島に漂着した神昌丸の乗組員だった。神昌丸の大黒屋光太夫ら3名はロシア皇帝エカチェリーナ2世の許しを得て、アダム・ラクスマンの使節と共に日本へ帰国していたが、新蔵と庄蔵はロシアに帰化して洗礼を受けて、イルクーツクで日本語学校教師を務めていた。新蔵と庄蔵は通訳として若宮丸乗組員を世話したが、庄蔵はまもなく病気により没した。 イルクーツクでは、若宮丸乗組員のうち善六、辰蔵、民之助、八三郎の4人が洗礼を受けてロシアに帰化した。若宮丸乗組員にはロシアの衣服と、月々の金貨3枚が支給された。また、若宮丸乗組員の中には店の手伝いで小遣いを稼ぐ者もいた。左平は日本流の酒造りで商売をし、儀兵衛は店の手伝いからロシア人の信用を得て、金を借りてそれを元手に金貸しをし、左太夫は日本式の網を作って魚を捕り、それを売ったという。1799年4月2日、最年長の吉郎次が72歳で病死して異国人墓地に葬られた。 1803年に、ロシアから日本へ使節を派遣することが決まり、若宮丸乗組員の日本送還の知らせがイルクーツクに届いた。同年4月28日に若宮丸乗組員13名とロシアの役人、通訳の伊勢の新蔵が7台の馬車でロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへ向けて出発した。一行はトムスク、トボリスク、カザン、モスクワを経てサンクトペテルブルクへ向かったが、その途中、左太夫と清蔵が病のためイルクーツクへ戻され、銀三郎も病のためペルミに残った。若宮丸乗組員10名がサンクトペテルブルクへ着いたのは同年6月だった。一行は、大臣ニコライ・ペトロヴィッチ・ルミャンシェフ伯の屋敷に滞在した。そして、同年7月4日に若宮丸乗組員10名はロマノフ朝第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世に謁見した。津太夫、儀兵衛、太十郎、左平は帰国を希望し、善六、辰蔵、八三郎、民之助、茂次郎、巳之助はロシアに留まることを希望して、アレクサンドル1世は4人の帰国を認め、6人のロシア残留を「勝手に致すべし」とした。謁見後、若宮丸乗組員達は皇帝と共に軽気球の飛行実験を見学し、またサンクトペテルブルク滞在中に美術館や博物館、劇場、病院、寺院などを見て回ったという。なお茂次郎と巳之助は後に洗礼を受けた。
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