サンクトガーレン社設立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/14 16:55 UTC 版)
「サンクトガーレン」の記事における「サンクトガーレン社設立まで」の解説
1990年冬、株式会社永興の社長岩本光生はカリフォルニア州のブルワリーパブで飲んだクラフトビールに衝撃を受け、日本でのクラフトビールの生産を検討する。当時の日本の酒税法では年間最低製造量は2000kl。日本では無理だと結論を出した光生は、1988年にサンフランシスコに開業していた飲茶レストラン「カフェ・パシフィカ」をブルワリーパブに改装する。当時はサンフランシスコにもブルワリーパブは3件しかないという状況であった。1993年3月、ブルワリーパブ「カフェ・パシフィカ」がスタートする。日本人がアメリカでブルワリーを開業したことは、TIMEやNewsweekでもニュースとなる。当時の日本が規制だらけであることの象徴として光生は取り上げられ、TIMEでは光生のインタビューと共に新規参入ができない日本のビール事業の現状が報じられた。 1993年冬、六本木に飲茶レストラン「サンクトガーレン」を開業し、サンフランシスコからビールの輸入も開始する。「サンクトガーレン」は200lという小さな醸造設備を備えており、そこで光生の次男である岩本伸久が「ビアルネッサンス」と名付けたノンアルコールビールを醸造しはじめる。翌年、ビールの年間最低製造量が60klまで下げられる。光生は真っ先に免許を申請するとみられていたが、当初は申請しようとはしなかった。 1997年、光生はサンフランシスコと六本木の店を閉店し、神奈川県厚木市にブルワリーを開設する。このブルワリーは伸久が責任者となる。2000年には、「カフェ・パフェシカ」の経営をしていた光生の長男が厚木市愛甲石田にビアバー「サンクトガーレン」を開業する。しかし、日本の地ビールブームが去った後、経営難を理由として2000年にビール事業を撤退することとなる。
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