イスラエルの油断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:36 UTC 版)
イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(以下アマン)やイスラエル諜報特務庁(以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。 ここにアマンの局長エリ・ゼイラ少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「コンセプト」(The Concept)という理論がある。 すなわち、 シリアがイスラエルに対して戦争を仕掛けるにはエジプトとの同時攻撃が不可欠である。 エジプトが攻撃を決意するには第三次中東戦争の二の舞を避けるために空軍力の再建と、(Tu-16やスカッドなど)『攻撃的兵器』の装備が必要である。 エジプトが空軍再建や『攻撃的兵器』の調達を実現するのはソ連が貸与を渋っているため、1975年までかかる。 したがってアラブ側は少なくとも1975年まで戦争を仕掛けてこない(その時にはイスラエルの軍事力はさらに向上している)。 1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらは全て「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の砂漠では対戦車砲や歩兵を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『空飛ぶ砲兵』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。 しかし、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのである。 1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の動員令を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、特に1973年5月の動員は6,200万イスラエルポンド(45億円) という経済損失から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。 また1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件や9月5日のミュンヘンオリンピック事件などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。
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