オールタンク・ドクトリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 01:33 UTC 版)
「イスラエル・タル」の記事における「オールタンク・ドクトリン」の解説
第三次中東戦争でのアラブ側に対する圧倒的勝利ののち、タルは「機甲の衝撃」、いわゆる「オールタンク・ドクトリン」という理論を提唱した。視界の開けた砂漠では戦車の脅威となる対戦車砲は建物や木が多いヨーロッパと違って隠蔽が困難であり、第三次中東戦争での経験による「アラブの兵士は弱い」という認識もあって、これらの障害を排除するための歩兵部隊や砲兵部隊の随伴を機甲部隊は必要とせず、空軍の支援のもと機甲部隊は単独で突破戦力としての任務を十分に遂行できる、というものである。この理論に従って機甲部隊は73年までの5年間に台数が約2.5倍になり、空軍は国防費の半分を占め、強化されたが歩兵部隊と砲兵部隊の増強はやや立ち遅れ気味であった。 砂漠という戦場の特殊性を重視したあまり諸兵科連合という戦闘教義を軽視した代償を、イスラエル軍は第四次中東戦争の緒戦で味わうことになる。開戦初日、シナイ方面ではバーレブ・ラインの拠点兵を援護するために単独で出動した3個機甲旅団は9M14『マリュートカ』(NATO名AT-3『サガー』)対戦車ミサイルをはじめとする多種多様な対戦車火器から集中砲火を浴び、ことごとく壊滅し、10月8日に行われた攻勢も歩兵部隊と砲兵部隊の支援が不十分で(指揮官の間での意思疎通がなっていなかったというのもあるが)やはり失敗した。やがてイスラエル軍は臨時編成で機甲旅団の中に機械化歩兵大隊を置くなどして戦闘を戦い抜いた。
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