イスラエルの戦車運用史
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「ヘイル・ハシリオン」(ヘブライ語: חֵיל שִׁרְיוֹן , Heil HaShiryon) ことイスラエル機甲軍の歴史は1948年の第一次中東戦争当時イギリス軍から色仕掛けで騙し取ったり、世界中から「スクラップ」として購入、再生させた雑多な戦車からなる部隊を編成したことに始まる。当時のイスラエル国防軍はハガナーなど地下武装組織から発展、設立されたばかりだったため戦車・野砲といった重火器は不足しており、したがって第一次中東戦争での戦車運用は歩兵支援に留まっていた。1956年の第二次中東戦争当初も、参謀総長モシェ・ダヤンをはじめとして「戦車は歩兵の支援兵器」といった考えが根強かったが、第7機甲旅団のアブ・アゲイラ攻防戦などにおいて戦車部隊による機動戦の有効性が証明され、さっそくダヤンはイスラエル・タル、アブラハム・アダン、モシェ・ペレト(ヘブライ語)といった有能な将校を多数機甲科に転科させ、戦車部隊の強化を図った。 1967年、第三次中東戦争が勃発する。イスラエル軍は航空部隊や歩兵部隊などとの密接な連携により、シナイ半島では3個機甲師団が「イスラエル版電撃戦」とも呼ばれる快進撃を果たし、わずか六日間で戦争はイスラエルの圧倒的勝利に終わった。だがこの勝利によりイスラエル軍は「オールタンク・ドクトリン」に代表されるように戦車偏重主義に走り、他部隊との連携が軽視されがちとなった。 1973年、第四次中東戦争が勃発。この戦争はイスラエル機甲軍だけでなく世界の機甲軍にとっても貴重な戦訓をもたらした戦争であった。緒戦においてスエズ運河を渡河したエジプト軍の歩兵部隊はRPG-7対戦車擲弾発射器、AT-3対戦車ミサイル、B-10無反動砲などの多種多様な対戦車火器によって濃密な対戦車防衛網を築き、歩兵・砲兵の支援もなく突撃してきたイスラエル軍の戦車をことごとく撃破した。一方ゴラン高原においては、第7機甲旅団と第188機甲旅団が圧倒的戦力差のシリア軍の前に奮戦し、シリア軍に多大な損害を与えた。戦争後半においてイスラエル軍は見事な機動戦を展開し、かろうじて軍事的には勝利を収めたものの、戦車部隊の被害は甚大であった。この戦争での戦死者約2500人のうち、1500人が戦車兵であった。イスラエルの人的資源の問題(後述)から兵員の死傷は看過できぬ問題であった。第四次中東戦争以降イスラエルは大規模な地上戦こそ経験していないが、1982年のレバノン内戦、2006年の第二次レバノン内戦、2014年のガザ侵攻などにおける市街戦でも戦車を多数投入しており、現在でも戦車兵の能力は高いレベルにあると推測される。
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