戦争後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 05:57 UTC 版)
「ウラジオストク巡洋艦隊」の記事における「戦争後半」の解説
その後、ウラジオストク巡洋艦隊は戦闘練習訓練と修理に日々を費やすこととなった。1905年1月1日に旅順艦隊が降伏すると、第1太平洋艦隊本体の消滅によりウラジオストク巡洋艦隊はその名を引き継いで太平洋巡洋艦隊(Отряд крейсеров в Тихом океане)と名を改めた。 1905年5月7日には「ロシア」と「グロモボーイ」は修理を終え、日本列島近海へ軍事任務を帯びて出航した。そして、3日間の内に4隻のスクーナーを撃沈した。しかし、5月23日には定期的な哨戒航海において「グロモボーイ」が触雷、大破した。日本側はウラジオストクを目指していたバルチック艦隊を撃滅させる最後の手段として5月半ば、ウラジオストク港外に機雷を設置していたのである。またバルチック艦隊も27 - 28日の日本海海戦で敗れ、2等巡洋艦「アルマース」、水雷艇(駆逐艦)「グローズヌイ(ロシア語版)」、「ブラーヴイ(ロシア語版)」の3隻のみがたどり着いた。 1905年夏には、太平洋巡洋艦隊は艦船独立分遣隊(Отдельный отряд судов)の指揮権下に入り、ウスリー湾の防備に当たることとなった。司令官は、ウラジオストク港のニコライ・グレーヴェ(ロシア語版)海軍少将が就任した。日本海海戦生き残りの3隻も分遣隊に編入された。 終戦後の11月11日には、海軍参謀司令部より「ボガトィーリ」、「グロモボーイ」、「ロシア」は南週航路経由でバルト海へ帰還するよう指令が出た。リーバウへ到着したのち、1906年3月30日には合同分遣隊は解散され、艦船はバルト艦隊へ編入された。
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