戦争小説『砲火』
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「アンリ・バルビュス」の記事における「戦争小説『砲火』」の解説
1914年に第一次世界大戦が勃発し、同年8月2日に発せられた総動員令(Mobilisation française de 1914)では20歳から38歳の健康な男性を兵役に服させることを定めていたにもかかわらず、41歳でもともと肺が弱かったバルビュスが、同日、即座に志願した。1914年8月9日付『リュマニテ』紙に掲載された同紙編集長宛のバルビュスの手紙には、「予備兵とされたが、前線で戦うことを希望し、まもなく一歩兵として出発する。… この戦争は社会戦争であって、… 軍国主義と帝国主義に対する闘いである。… 自分の命を犠牲にしたとしても、また、喜んで戦地に赴くのであれば、それはフランス人としてのみならず、人間としてである」と書かれている(1920年刊『戦士のことば』所収)。 フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。『砲火(Le Feu)』 バルビュスは17か月にわたって兵役に就いた。うち、11か月は一兵士、次いで衛生兵として前線で戦ったが、病に倒れ、参謀本部事務局、さらに野戦病院に勤務した。この間の体験を妻に書き送り、これをもとに小説『砲火』を執筆した。これをジャーナリストのギュスタヴ・テリー(フランス語版)が戦時中の検閲に抵抗して、1916年、自ら主宰する新聞『ルーヴル(フランス語版)』に連載し、同年、フラマリオン社(フランス語版)から刊行され、ゴンクール賞を受賞した。 塹壕戦と塹壕での兵士の生活を描いたこの小説は、一部の右派ナショナリズムの新聞・雑誌では「敗北主義」と批判されたものの、戦争のさなかにあって戦意を鼓舞するために戦果を誇張したり戦争を理想化したりするのとは逆に、その悲惨さ、恐怖、不条理をありのままに描いた作品と評され、バルビュスは「塹壕のゾラ」と称された。 同じく大戦中の翌1917年、バルビュスは前年のヴェルダンの戦いで負傷した社会主義の作家レイモン・ルフェーヴル(フランス語版)、シャンパーニュの戦い(フランス語版)で負傷した作家ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ(フランス語版)(後に共産党の機関紙『リュマニテ』編集長)とともに在郷軍人共和派協会(フランス語版)(ARAC)を設立した。これは退役軍人・戦争犠牲者への補償、反戦・平和運動、記憶の継承、反植民地主義・反ファシズムのための「自由、平等、友愛」という共和国の理念の促進を目的とする団体であり、労働インターナショナル・フランス支部(フランス社会党、SFIO)、共産主義インターナショナル・フランス支部(SFIC、現フランス共産党)の支持を得た。2度の大戦を経て、その役割は変わったものの、現在も活動を続けている。
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