戦争後の経過
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恐らくカルタゴを滅ぼした直後、スキピオは同行していたポリュビオスに艦隊を与えてカルタゴ以西の調査を行わせた。カルタゴとローマは過去4度の条約を締結していたが、アフリカ大陸についての情報は頑なに守られたため、ローマにとっては未知であった。この調査について大プリニウスはポリュビオスの個人的好奇心によるものとしており、またアカイア同盟の指導者でありながらローマに従う彼の気晴らしであったとする学者もいる。この到達地点について、学者の意見はドラア川までとセネガル川までとするものに分かれているが、いずれにせよカルタゴの植民地があったとしても交易拠点に過ぎず、注意すべき取引は金だけであり、それも秘匿されていたため、恐らくポリュビオスは何の脅威もなかったことを報告した後、この年の秋、執政官ルキウス・ムンミウスがコリントスを破壊するところに立ち会っている(コリントスの戦い)。 カルタゴの旧領土はローマに併合され、ウティカを州都とするローマのアフリカ属州として再編された。アフリカ属州は穀物をはじめとする食糧の重要な供給地となった。最後までカルタゴに味方をしていたポエニの都市は、アゲル・プブリクスとしてローマに没収されるか、ヒッポのように破壊された。一方で生き残った都市では少なくとも伝統的な政治制度や文化の基盤を残すことが許された。運良く滅亡に巻き込まれずに済んだカルタゴ出身のクリトマクス (哲学者)(英語版)のような者もおり、ローマに逆襲するためミトリダテス6世に話を持ちかけたカルタゴ人もいたという。 モムゼンによれば、ローマはヌミディアを牽制しつつ属州の境界線を定め、味方だったウティカやハドルメントゥム、タプスス、アコッラ、テウダリスといった町は領土を保全され、敵方に回った町は法律上の領土や自由を失ったものの、年に一度の税金を払うことでそれらは手元に残された。カルタゴが破壊されたことで、ローマの商人たちはウティカに殺到し、新天地であるヌミディアやその南方のガエトゥリアへ乗り出していったという。ローマ人は地元の人々の私生活には干渉せず、ポエニの文化、言語、宗教は生き残り、これらは現代の学者によって「新ポエニ文明」と呼ばれている。北アフリカでは紀元後7世紀までポエニ語(英語版)が話されていた。 紀元前123年にガイウス・グラックスに率いられたローマの改革派が公有地を含む土地の再分配を強力に推し進めようとした。この再分配の対象にはカルタゴの跡地も含まれており、そこにユノニア(英語版)と呼ばれる新しい植民都市の設立を命じる物議を醸す法律が可決された。保守派はこの法律に反発し、法の成立後には新しい居留地の境界を示す標識が狼に掘り返されたという非常に縁起の悪い噂を流した。このような噂やその他の政治的な謀略によって、植民の計画は頓挫した。紀元前111年に制定された法律では再びあらゆる再定住が禁止されている。 戦争から1世紀を経てユリウス・カエサルがカルタゴをローマの都市として再建する計画を立てたが、計画はわずかしか実行に移されなかった。紀元前29年に至りオクタウィアヌスがこの構想を復活させ、計画を完成へと導いた。ローマ期のカルタゴ(英語版)は帝政ローマ時代にアフリカの主要都市の一つとなった。1世紀の地理学者ポンポニウス・メラ(英語版)によれば、クラウディウス帝時代にはカルタゴはかつての姿を取り戻したとされ、フラウィウス朝時代には執政官を出したという。コンモドゥスの頃には艦隊が駐留し、セウェルス朝時代には公共施設が建ち並ぶ帝国有数の都市となっていた。 カルタゴはその後ヴァンダル人に占領されヴァンダル王国の首都となった。ユスティニアヌス1世によって奪還されたものの、697年にイスラム帝国の支配下に入っている。ポエニ戦争終結から2,131年後の1985年2月5日にはローマ市長のウーゴ・ヴェテレ(英語版)とカルタゴ市長のシェドリ・クリビ(英語版)によって、両都市の間で象徴的な平和条約が締結された。
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戦争後の経過
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「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「戦争後の経過」の解説
二度にわたるエジプト侵攻の失敗はファーティマ朝に大きな困惑をもたらした。ファーティマ朝の弁明者たちは、この失敗を神に導かれた王朝のための神の計画の一部として説明しようとした。断片的な形で残る書物の『スィラート・アル=イマーム・アル=マフディー』は、カーイムが「敗北することなく」帰還したと主張しているが、一方で10世紀後半における最も重要なファーティマ朝の代弁者であったアル=カーディー・アル=ヌウマーン(英語版)は、カリフのマフディーは神の予知能力を持っており、息子が敗北することを知っていたが、ファーティマ朝の意図を公にするとともにジハードを遂行する熱意を証明し、王朝のダーワを広めるためにはこの作戦が必要であったと主張した。 ファーティマ朝はその後の数年にわたってバルカからエジプトに対する攻撃を続けた。922年と928年にはアレクサンドリアから西へ約60キロメートルに位置するダート・アル=ヒマームでファーティマ朝軍とアッバース朝軍が戦った。また、923年には別のファーティマ朝軍の指揮官が西部砂漠(英語版)のオアシスの一つ(ダフラ・オアシス(英語版)と考えられている)を襲撃して破壊したが、病気の蔓延によって撤退を強いられた。 しかしながら、935年にエジプトの軍閥間の内紛に短期間介入した以外は、ファーティマ朝による本格的なエジプト征服の試みは何年にもわたって行われなかった。再び大規模な侵攻が実行に移されたのは、勢力の均衡がファーティマ朝に有利な方向へ大きく傾いていた969年のことである。この頃までにアッバース朝は官僚、宮廷、軍部間の対立による絶え間ない権力争いで弱体化し、野心を持つ地方の統治者によって遠隔地を奪われ、カリフはブワイフ朝の無力な傀儡と化したことで政治的な実体を失っていた。その一方でファーティマ朝は国力を増してはるかに多くの富を抱えるようになり、同時に規律のある大規模な軍隊を保有するようになっていた。そして969年の侵攻ではほとんど抵抗を受けることなくエジプトの征服に成功した。972年にファーティマ朝は宮廷をエジプトに移し、フスタートの北に新しい首都であるカイロを建設した。
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戦争後の経過
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「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「戦争後の経過」の解説
この遠征の失敗はファーティマ朝の統治体制の基盤を大きく揺るがし、イマーム(宗教指導者)たるカリフが担う神から授けられた使命に対する信仰に動揺を与えた。その結果として、今や罪人として追われる身となったフバーサの出身部族であるマルーサ族(クターマ族を構成する氏族の一つ)の不満を呼び起こすことになった。最終的にフバーサは捕らえられて投獄されたが、この出来事はそれまで仕えていたマフディーの政権を守る上で重要な役割を担い、遠征から近い時期にイフリーキヤ西部に存在するクターマ族の領地一帯に対する監督を委ねられていたフバーサの兄弟のガズウィーヤによる反乱を招いた。しかしながら、反乱はすぐに鎮圧され、ガズウィーヤとフバーサは処刑された。両者の首がマフディーの前に差し出された時、マフディーは「かつてこれらの首は東西を囲んでいたが、今はこの籠の中に収まっている!」と叫んだといわれている。 ファーティマ朝はこの失敗にもかかわらず、919年に二度目の侵攻に乗り出したものの、この侵攻も失敗に終わった。そして935年にエジプトの軍閥間の内紛に短期間介入した以外は、969年まで本格的な侵攻が実行に移されることはなかった。この頃までにアッバース朝は官僚、宮廷、軍部間の対立による絶え間ない権力争いで弱体化し、野心を持つ地方の統治者によって遠隔地を奪われ、カリフはブワイフ朝の無力な傀儡と化したことで政治的な実体を失っていた。その一方でファーティマ朝は国力を増してはるかに多くの富を抱えるようになり、同時に規律のある大規模な軍隊を保有するようになっていた。そして969年の侵攻でファーティマ朝はほとんど抵抗を受けることなくエジプトの征服に成功した。
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