戦争後の経過とは? わかりやすく解説

戦争後の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 11:07 UTC 版)

第三次ポエニ戦争」の記事における「戦争後の経過」の解説

恐らくカルタゴ滅ぼした直後スキピオ同行していたポリュビオス艦隊与えてカルタゴ以西調査を行わせた。カルタゴローマ過去4度条約締結していたが、アフリカ大陸についての情報頑なに守られたため、ローマにとっては未知であった。この調査について大プリニウスポリュビオス個人的好奇心よるものとしており、またアカイア同盟指導者ありながらローマに従う彼の気晴らしであったとする学者もいる。この到達地点について、学者意見ドラア川までとセネガル川までとするものに分かれているが、いずれにせよカルタゴ植民地があったとしても交易拠点過ぎず注意すべき取引は金だけであり、それも秘匿されていたため、恐らくポリュビオス何の脅威もなかったことを報告した後、この年の秋、執政官ルキウス・ムンミウスコリントス破壊するところに立ち会っている(コリントスの戦い)。 カルタゴ旧領土はローマ併合されウティカ州都とするローマアフリカ属州として再編された。アフリカ属州穀物はじめとする食糧重要な供給地となった最後までカルタゴ味方をしていたポエニ都市は、アゲル・プブリクスとしてローマ没収されるか、ヒッポのように破壊された。一方で生き残った都市では少なくとも伝統的な政治制度文化基盤を残すことが許された。運良く滅亡巻き込まれずに済んだカルタゴ出身のクリトマクス (哲学者)(英語版のような者もおり、ローマ逆襲するためミトリダテス6世に話を持ちかけたカルタゴ人もいたという。 モムゼンによればローマヌミディア牽制しつつ属州境界線定め味方だったウティカハドルメントゥムタプスス、アコッラ、テウダリスといった町は領土保全され敵方回った町は法律上領土や自由を失ったものの、年に一度税金を払うことでそれらは手元残された。カルタゴ破壊されたことで、ローマ商人たちウティカ殺到し新天地であるヌミディアやその南方のガエトゥリアへ乗り出していったという。ローマ人地元人々私生活には干渉せずポエニ文化言語、宗教生き残り、これらは現代学者によって「新ポエニ文明」と呼ばれている。北アフリカでは紀元後7世紀までポエニ語英語版)が話されていた。 紀元前123年ガイウス・グラックス率いられローマ改革派公有地を含む土地再分配強力に推し進めようとした。この再分配対象にはカルタゴ跡地含まれており、そこにユノニア(英語版)と呼ばれる新し植民都市設立命じ物議を醸す法律可決された。保守派はこの法律反発し法の成立後には新し居留地境界を示す標識掘り返されたという非常に縁起悪い噂流したこのような噂やその他の政治的な謀略によって、植民計画頓挫した紀元前111年制定され法律では再びあらゆる再定住禁止されている。 戦争から1世紀経てユリウス・カエサルカルタゴローマ都市として再建する計画立てたが、計画はわずかしか実行移されなかった。紀元前29年至りオクタウィアヌスがこの構想復活させ、計画完成へと導いたローマ期カルタゴ英語版)は帝政ローマ時代アフリカ主要都市一つとなった1世紀地理学者ポンポニウス・メラ(英語版によればクラウディウス時代にはカルタゴはかつての姿を取り戻したとされ、フラウィウス朝時代には執政官出したという。コンモドゥスの頃には艦隊駐留しセウェルス朝時代には公共施設建ち並ぶ帝国有数都市となっていた。 カルタゴその後ヴァンダル人占領されヴァンダル王国首都となったユスティニアヌス1世によって奪還されたものの、697年イスラム帝国支配下入っている。ポエニ戦争終結から2,131年後の1985年2月5日にはローマ市長のウーゴ・ヴェテレ(英語版)とカルタゴ市長のシェドリ・クリビ(英語版)によって、両都市の間で象徴的な平和条約締結された。

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戦争後の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:34 UTC 版)

ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「戦争後の経過」の解説

二度にわたるエジプト侵攻失敗ファーティマ朝大きな困惑もたらしたファーティマ朝弁明者たちは、この失敗を神に導かれ王朝のための神の計画一部として説明しようとした。断片的な形で残る書物の『スィラート・アル=イマーム・アル=マフディー』は、カーイムが「敗北することなく帰還した主張しているが、一方で10世紀後半における最も重要なファーティマ朝代弁者であったアル=カーディー・アル=ヌウマーン(英語版)は、カリフマフディーは神の予知能力持っており、息子敗北することを知っていたが、ファーティマ朝意図公にするとともにジハード遂行する熱意証明し王朝のダーワを広めるためにはこの作戦が必要であった主張したファーティマ朝その後数年わたってバルカからエジプト対す攻撃続けた922年928年にはアレクサンドリアから西へ60キロメートル位置するダート・アル=ヒマームでファーティマ朝軍とアッバース朝軍が戦ったまた、923年には別のファーティマ朝軍の指揮官西部砂漠英語版)のオアシス一つダフラ・オアシス英語版)と考えられている)を襲撃し破壊したが、病気の蔓延によって撤退強いられたしかしながら935年エジプト軍閥間の内紛短期間介入した以外は、ファーティマ朝による本格的なエジプト征服試み何年にもわたって行われなかった。再び大規模な侵攻実行移されたのは、勢力均衡ファーティマ朝有利な方向大きく傾いていた969年のことである。この頃までにアッバース朝官僚宮廷軍部間の対立による絶え間ない権力争い弱体化し野心を持つ地方の統治者によって遠隔地奪われカリフブワイフ朝無力な傀儡化したことで政治的な実体失っていた。その一方でファーティマ朝国力増してはるかに多くの富を抱えるようになり、同時に規律のある大規模な軍隊保有するようになっていた。そして969年侵攻ではほとんど抵抗を受けることなくエジプトの征服成功した972年ファーティマ朝宮廷エジプト移しフスタートの北に新し首都であるカイロ建設した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 09:57 UTC 版)

ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「戦争後の経過」の解説

この遠征の失敗ファーティマ朝統治体制基盤大きく揺るがしイマーム宗教指導者)たるカリフが担う神から授けられ使命対す信仰動揺与えたその結果として、今や罪人として追われるとなったフバーサの出身部族であるマルーサ族(クターマ族構成する氏族一つ)の不満を呼び起こすことになった最終的にフバーサは捕らえられ投獄されたが、この出来事それまで仕えていたマフディー政権を守る上で重要な役割担い遠征から近い時期イフリーキヤ西部存在するクターマ族領地一帯対す監督委ねられていたフバーサの兄弟のガズウィーヤによる反乱招いたしかしながら反乱はすぐに鎮圧され、ガズウィーヤとフバーサは処刑された。両者の首がマフディー前に差し出された時、マフディーは「かつてこれらの首は東西囲んでいたが、今はこの籠の中に収まっている!」と叫んだといわれている。 ファーティマ朝はこの失敗にもかかわらず919年二度目侵攻乗り出したものの、この侵攻失敗終わった。そして935年エジプト軍閥間の内紛短期間介入した以外は、969年まで本格的な侵攻実行移されることはなかった。この頃までにアッバース朝官僚宮廷軍部間の対立による絶え間ない権力争い弱体化し野心を持つ地方の統治者によって遠隔地奪われカリフブワイフ朝無力な傀儡化したことで政治的な実体失っていた。その一方でファーティマ朝国力増してはるかに多くの富を抱えるようになり、同時に規律のある大規模な軍隊保有するようになっていた。そして969年侵攻ファーティマ朝はほとんど抵抗を受けることなくエジプトの征服成功した

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