ローマ期
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紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマ(ローマ帝国)の植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名は「Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum」(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。 ポンペイは商業が盛んな港湾都市であった。整備された大きな港があり、海洋都市でもあった(ポンペイ周辺で火山活動の地殻変動が続いたことで、現在の遺跡の海抜は上昇し、水辺から遠ざかった状態になっている)。またぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。 街の守護神は、美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館も発掘され男女の交わりを描いた壁画が多く出土したので、現代ではポンペイは「快楽の都市」と呼ばれることもある。古代ローマ時代は性的におおらかな時代であり、ポンペイに限らず古代ローマの商業都市には商人向け(旅商人向け)の娼婦館のような施設は多かったという。 娼館に残っていた壁画 ポンペイのナルキッソスの絵
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ローマ期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 16:04 UTC 版)
2世紀中ごろから古代ローマや地中海の主要都市、アテネやギリシャ語圏の諸都市などで石棺(サルコファガス)が作られ、この石棺を飾る浮彫にギリシア神話が題材とされた。「カリュドーンの猪狩り」は、「ヘーラクレースの功業」や「ニオベーとその子供たち」などと並んで好まれた。
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