ローマ期の戦車競走とは? わかりやすく解説

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ローマ期の戦車競走

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 18:46 UTC 版)

戦車競走」の記事における「ローマ期の戦車競走」の解説

ローマ人たちに戦車競走伝えたのは、おそらくギリシア人通してこのスポーツ知ったエトルリア人たちであるが、紀元前146年ローマ帝国ギリシア本土征服すると、ギリシア人から直接影響受けたローマ伝説によれば戦車競走ロムルス紀元前753年ローマ創建した際、サビニ人たちの注意を逸らすため用いられた。サビニの男たち戦車競走スペクタクル興じている間にロムルスとその部下たちはサビニの女たち捕まえ連れ去ったのである。この出来事は「サビニの女たちの略奪」としてより一般に知られている。 「キルクス」も参照 古代ローマにおける戦車競走中心となったのはパランティーノの丘とアヴェンティーノの丘の間の谷にあった競技場キルクス・マクシムス)で、25万人収容できた。競技場エトルリア時代にまでおそらくさかのぼることができるが、紀元前50年ごろ、ユリウス・カエサルによって縦約621メートル、横約118メートル規模再建された。トラック一方の端はもう一方よりも幅が広くなっており、何台もの戦車レースのために並ぶことができるようになっていた。 ローマ人ギリシア人のヒュスプレクスにあたるものとしてカルケレスとして知られるゲート用いた。それらはヒュスプレクス同様にスタート位置ずらしたものとなっていたが、ローマ期レーストラックにはトラック中央分離帯スピナ)があった。カルケレスはトラックの端に角度をつけて設置され戦車はばねを仕込んだゲート入った戦車準備が整うと、皇帝ローマで開催され競技会ない場合皇帝以外のホスト役人物)がマッパ呼ばれた布を落としレース開始知らせたゲートはばねの力で開きすべての出場者を全く公平にスタートさせた。 レースが一旦始まれば戦車互い前に進み競走相手の車をスピナエ(スピナ単数形)に衝突させよう試みることができた。ただし、映画ベン・ハー』で描かれたような車軸取り付けられ刃物が敵の戦車破壊するギリシア車輪」は実在しなかった。スピナエには「卵」呼ばれるギリシア時代の「イルカのような装置があり、スピナエの上部に沿って穿たれ走路落ちて残り周回数を示した時代が下がるにつれ、スピナ彫像オベリスク、その他芸術的な方法によって装飾ほどこされ、非常に精巧に作られるようになった。これによって観衆スピナ向こう側を走る戦車を見ることが難しくなったが、当時の人々はこれがより観戦興奮盛り上げるものと考えていたようである。スピナそれぞれの端には折り返し点を示す標柱(メタエ、メタ単数形)があり、ギリシア時代のときと同様、観衆の目を奪う衝突はこの場所で見ることができた。戦車壊れ御者や馬が行不能になる衝突はナウフラジアと呼ばれ、これはラテン語で「難破」を意味した御者は、相手の馬を鞭打つことで馬の集中力をそらし「難破」に導くことは認められていたが、相手御者を鞭で打つことは禁じられていた。戦車スピード直線部分では70km/hにも達したため、車輪の軸発熱を冷ますため走路の脇から水を掛けて冷やすこともあった。メタエの折り返しカーブ差し掛かる部分では速度落ちるが、それでも30km/hから40km/h程度速度出ていたもの考えられるレースそのものギリシア時代のものとほとんど変わらなかったが、ローマ時代には毎日何十ものレースが、時には年に何百日連続して行なわれていた。しかしながら走行距離ギリシア12周から7周へ、のちには1日あたりレース数を増やせるよう5周までとなっていた。さらにローマ式の戦車競走より金権的であり、御者はその仕事専門とする者たちで、賭け事観衆の間で幅広く行なわれていた。 4頭立て戦車用いるクワドリガエと2頭立てのビガエがあり、クワドリガエのほうがより重要であった。まれに御者が自らの技術誇示するために10頭立て戦車用いることもあったが、実用的というには程遠かったギリシア人とは異なり、ローマ期の戦車競走の御者たちは、ヘルメット頭部保護するものをかぶり、ギリシア人手綱両手持っていたのに対してウエスト手綱巻きつけていた。このためローマ人戦車横転し御者台から放り出された際、命を落としたり、自ら脱出成功したりするまで、手綱絡まったまま競技場内引きずられることがあった。このような状況備えて彼らは自ら手綱を切るためのナイフ携えていた。 いくつかの部分不正確なところはあるものの、この時代戦車競走の最も有名かつ最良再現映画ベン・ハー』に見ることができる。ただし、多くハリウッド映画登場する二輪戦車あまりにも大きく重すぎるため、将軍凱旋行進には最適であるが、実際戦車競走ではもっと軽く車輪小さく重心が低い車体使われていたと考えられるこのようなレース用の車体耐久年数短く、おそらく競技後に分解される壊されてしまったと考えられるため、現代まで残っているものは無い。映画等参考にされているものは、おそらくエトルリア人の墓などから発掘され凱旋行進用ものだと推察される。 もう1つ重要な違いは、戦車御者(アウリガエ)たち自身が、ギリシア時代同様、その多くの者が奴隷であったにもかかわらず競走勝者と見なされた点である。彼らは月桂冠とおそらくいくらか賞金獲得し十分な数の勝利を得れば自由民としての身分を買うことができた。御者たちの平均寿命長くなかったため、彼らは、生き残っていることそれだけで全帝国規模での有名人となることができた。このような著名な御者1人にスコルポスがいる。彼は27歳メタ標柱)に激突して死ぬまで2,000上のレース勝利した。馬もまた有名になったが、こちらもその寿命短かったローマ人々著名な馬の名前や品種血統詳細に記録している。また、1127回の勝利を収めたカルプルニアーヌスや、1462回の勝利を収め3度1度勝った伝えられているガイウス・アップレーイウス・ディオクレースも有名である。カルプルニアーヌスは100万セステルティウス上のガイウス3600セステテルティウス以上の賞金稼いだ考えられている。 共和政ローマにおいてそうであったような、政治的もしくは軍事的なかかわり帝政ローマにおいて持たなかった貧し人々は、無料競技場入場することができた。富裕層場内がよりよく見え屋根のついた座席を買うことができ、レース結果について賭け事をしてほとんどの時間過ごしていたと考えられる皇帝宮殿競技場のそばにあり、しばしば皇帝観戦訪れた。これは一般の人々にとって彼らの指導者目にする数少ない機会一つであった。特にユリウス・カエサル人々自分のことを見ることができるようにしばしばレース観戦行なった。もっとも、彼自身レース自体にあまり関心なかったらしく、大抵、読むものを手に競技場へやってきた。劇場赴く際にも書類仕事持ってきていたので、そのためにあまり好意的に受け取られなかった。 ネロはほとんど他のすべてを除いて戦車競走関心をもっていた。彼は自ら御者となり、ローマ時代当時まだ開催されていたオリンピック戦車競走優勝したネロのもとで主要なレーシング党派発展始まった4つの最も重要な党派赤チーム青チーム緑チーム、そして白チームであった。それらはまず競走馬生産するさまざまな厩舎関係者後援者たちとしておそらく成立したが、それに対してネロ帝はこれらが彼の支配をほぼ超えて発展できるように助成行なった。 おのおののチームは1レースあたり3台までの戦車をもつことができた。同じチームの構成同士はしばし互いに協力して例えスピナ中央分離帯)に向けて相手チーム衝突するように仕向ける(これはルール認められており、推奨され戦術であった)などして、他のチーム相対した御者今日スポーツ選手異なチームトレードされるのと同様、所属チーム変更することができた。 テルトゥリアヌスは、当初たった2つ党派、冬を祭る白チームと夏に捧げられ赤チームしかなかった、という説に異を唱え3世紀初頭頃、彼は赤チーム軍神マルスに、白チーム西風の神ゼフィロスに、緑チーム母なる大地もしくは春に青チームは空と海もしくは秋に献じられていると書いている(『見世物について』9章5節)。ドミティアヌスは紫チームと金チーム2つ党派作ったが、すぐにそれらは消滅した3世紀までには青チーム緑チームのみが重要性をもつようになっていた。 ローマ帝国領内には多く戦車競技場キルクス)が存在したローマ郊外にもマクセンティウスの競技場のように主要な競技場があった。アレキサンドリアアンティオキアにもあり、ユダヤではヘロデ大王4つ戦車競技場建造した

※この「ローマ期の戦車競走」の解説は、「戦車競走」の解説の一部です。
「ローマ期の戦車競走」を含む「戦車競走」の記事については、「戦車競走」の概要を参照ください。

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