東ローマ期の戦車競走
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330年、コンスタンティヌス1世は新しい首都コンスタンティノープルの開都と同時に戦車競技場(キルクス)を開場した。ローマ人ほどには多くの記録や統計をビザンツ人は残していないが、東ローマ帝国はローマ世界のパンとサーカスの伝統を受け継ぎ、戦車競走は祝日や皇帝の誕生日など帝都の祝祭に欠かすことのできない興行として市民の人気を集めた。競技場には御者の像が建てられ、肖像入りのメダルやカメオも作られた。 コンスタンティヌス大帝は異教崇拝の残滓と見なしていた剣闘士競技よりも戦車競走のほうを好んだ。敬虔なキリスト教徒であったテオドシウス1世によって、異教を排しキリスト教を推進する動きの中、オリンピックは394年に遂にその歴史を終えたが、戦車競走の人気は衰えなかった。コンスタンティノープルの競技場(かつてのギリシアの競技場のように屋根のないものではなくまさしくローマ風のもの)は、皇帝の宮殿と聖ソフィア大聖堂とつながっており、観客はローマでそうであったように皇帝の姿を見ることができた。 ローマ帝国において戦車競走が賄賂やその他の不正の温床となったことを示す証拠があまり見られなかったのに対し、東ローマ帝国においてはより不正が多かったと考えられている。ユスティニアヌス1世が改革を行なった法律は御者に対し自らの競走相手に向かって悪態をつくことを禁じているが、さもなければ無意識の不正や賄賂などがあったようには思われない。チームカラーの服を着るというのはビザンツ期の衣服における重要な側面となった。 東ローマ帝国における戦車競走はローマ風のレーシングクラブも持っていたが、この時代においては青チームと緑チームのみが重要であった。5世紀において最も有名な御者の1人であるポルフィリウスは青チームと緑チームの両方に、別々の時期に属していた。 しかしながら、それらは今や、軍事的、政治的、神学的な問題における影響力をもつ、単なるスポーツチームとして以上の存在となっていた。例えば、保守的な青チームは両性説をとる正教会を信仰し、しばしば皇帝に支持された。これに対し革新的な緑チームは単性説に与していた。またストリートギャングのようなものとしても発展し、強盗や殺人の原因ともなった。このような集団による暴動はネロの治世にまでさかのぼるが、5世紀および6世紀にかけてのこの時代においてその絶頂に達したのはユスティニアヌス帝政期の532年、ニカの乱であり、この事件の発端はこれらのチームの構成員が殺人罪で逮捕されたことによる。 戦車競走はこの事件を境に退潮を始めるが、この頃までにレーシングチームや皇帝にとってすら非常に金のかかるスポーツとなっていた。9世紀までに白チームは青チームに、赤チームは緑チームに吸収された。この吸収によってできた2つのチームは地域的な民兵組織を形成し、帝国の巨大なヒエラルキーに組み込まれることとなった。 東ローマ帝国がイスラム帝国の侵攻を受けて領土を縮小させていった7世紀以降はレースの開催数が減っていき、皇帝の誕生日や5月11日のコンスタンティノープル開都記念日などに開かれるのみとなったが、コンスタンティノープルの競技場は1204年に第4回十字軍による略奪を受けるまで、代々の皇帝たちにとっての聖域であり続けた。この略奪の際、十字軍は聖マルコの馬として知られる像を競技場の建物から取り外した。これら4体の青銅像はもともとコンスタンティヌス大帝によって建造された4頭立ての戦車を模した記念建造物の一部であった。これらは現存し、現在はイタリア、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院におかれている。
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