戦争後半の任務とケンタッキー州定着
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「アイザック・シェルビー」の記事における「戦争後半の任務とケンタッキー州定着」の解説
シェルビーが故郷に帰ると、父が植民地開拓者とチカマウガ族との間の条約を交渉する委員に指名されていた。この任務のためにグリーンのもとに帰るのが遅れたが、1781年10月にシェルビーとセビアは600名のライフル銃部隊を率いてサウスカロライナのグリーン軍と合流した。グリーンはシェルビーとセビアの部隊を、イギリス軍のコーンウォリス将軍がチャールストンから戻ってくるのを防ぐことに使おうと考えた。しかし、コーンウォリス将軍はシェルビーとセビアが到着してから間もなくヨークタウンの包囲戦で敗れたので、グリーンはシェルビー達をピーディー川沿いにいるフランシス・マリオン将軍の部隊と合流させるために派遣した。シェルビーとヘゼキア・マハム大佐はマリオンの命令に従い、1781年11月27日にモンクスコーナー近くのフェアローンにあったイギリス軍の砦を占領した。 シェルビーは野戦指揮にありながら、ノースカロライナ議会議員に選出された。シェルビーは1781年12月の議会に出席するために軍隊からの休暇を願い出て認められた。シェルビーは1782年にも再選されて、その年の4月の会期に出席した。1783年初め、カンバーランド川沿いに兵士達が主張する優先権について調査するコミッショナーに選ばれた。 1783年4月、シェルビーはケンタッキーに戻り、ブーンズバラに居を構えた。4月19日にはスザンナ・ハートと結婚した。この夫妻には11人の子供が生まれた。長女サラはエフライム・マクドウェル博士と結婚し、末娘のレティシアは後のケンタッキー州務長官チャールズ・スチュワート・トッドと結婚した。11月1日、シェルビー家はリンカーン郡のノブ・リック付近に移り、その兵役の報酬で得た土地に入った。1783年、シェルビーはトランシルバニア神学校(後のトランシルバニア大学)の理事に指名され、1787年12月1日、有効知識推進のためのケンタッキー協会を設立した。 シェルビーは1784年には既にケンタッキーをバージニアから分離する運動を始めた。この年、インディアンに対する遠征隊を率いることと、バージニアからケンタッキーを分離することを検討する協議会に出席した。その後も1787年、1788年および1789年に開催された協議会の代議員となり、ケンタッキー憲法制定に動いた。これら協議会の間に、ジェイムズ・ウィルキンソンのケンタッキーをスペインと連携させるという計画の阻止に貢献した。1791年、シェルビーとチャールズ・スコット、ベンジャミン・ローガンはバージニア州議会によって選ばれたケンタッキー地区のための戦争委員会に入った。シェルビーはリンカーン郡の長官にもなった。1792年、最初のケンタッキー憲法の枠組みを決める最終協議会の代議員になった。
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