戦争指導と大英帝国の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:40 UTC 版)
「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「戦争指導と大英帝国の建設」の解説
ピットは、初代アンソン男爵ジョージ・アンソン提督を海軍大臣(英語版)に再任させ、エドワード・ボスコーエン、ホーク、ソンダースといった提督やジェフリー・アマーストやジェームズ・ウルフといった将軍を能力本位で起用した。 また戦争指導の方針としては欧州大陸では同盟国プロイセンに対する資金援助を中心にして深入りせず、海上や北アメリカ大陸・インド等の植民地での対仏戦争に戦力を集中させた。 就任直後には大陸でのイギリスとプロイセンは苦しい戦況にあったが、1757年11月から12月にプロイセンがロスバッハの戦いやロイテンの戦いに勝利したため、事態打開の兆しが見えた。1758年4月にはプロイセンと第二次ウェストミンスター協定を締結して同盟関係を強化し、イギリスはプロイセンに多額の資金を与えた。 植民地における戦いも好調だった。インドでは1757年6月にフランスの支援を受けたベンガル太守をプラッシーの戦いで撃破することに成功し、ベンガル地方の支配権を確立できた。また1758年12月にはマドラスの防衛にも成功した。北アメリカでもピットが任じた軍人たちが活躍し、1758年7月にはルイスバーグを陥落させ、11月にはデュケーヌ要塞を陥落させた。 1759年は「奇跡の年」と呼ばれ、イギリスの戦勝が更に増加した。8月にはラゴス沖の海戦、11月にはキブロン沖の海戦に勝利し、フランス軍のイギリス上陸作戦を不可能にした。北アメリカでは7月にはナイアガラ要塞、9月にはケベック、1760年9月にモントリオールを占領したことでフランスはカナダから駆逐された。 西アフリカのセネガルでも勝利を収めた。 これら七年戦争の植民地での戦闘の勝利で、名誉革命以来長く続いていたフランスとの植民地争奪戦に終止符が打たれ、イギリスはインド、北アメリカ大陸、西インド諸島を掌握。これらが後に世界最大の植民地帝国となる大英帝国の土台となった。とりわけインドは東洋に大帝国を建設する上で重要な存在となった。
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