戦争批判と死刑廃止
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宗教家としての智學を窺い知る事ができる主張に「戦争批判と死刑廃止」がある。それについては以下の記述あり。 平和来らんとすという。善哉。殺人運動の休止は、人類一般の望む処なり。只この大戦(第一次世界大戦)を機として、人間の世に復と斯くの如き悲惨事の根絶せんことを望まざるを得ず。巧に人を殺すことを以て、智識文明の究極と為しつつある間は、政治も哲学も宗教も道徳も、倶にその本領を竭くしたるものにあらず。人類最後の到達点は絶対平和に在り。釈尊と神武天皇とは最も早くこれを高唱して道を布き国を建てたり。日本国体と法華経の事理一雙是なり。 『国柱新聞』大正7年11月1日 軍備縮小は事理紛糾の種なり。世界万国一斉に軍備撤廃を議し、絶対に武器の製作を厳禁することを提案すべし。平和裁判これによりて真剣となるべし。残忍性を人間より取去ることを考究せざれば、人の世に平和は断じて来たらず。国際的に公議して、一切に砲火を禁ぜよ。人間の戦は人間らしくすべし、これ戦を止むる漸なり。 『天業民報』大正13年11月8日 元来、戦争と申スものはやむを得ずして行うものにして、平和手段で決し難い場合、変則の方法としてその行詰りを打開するまでの方便ゆえ、勝負だけが目的で、国と国との間にして衝突は生まれ、戦闘に従事する各々の国民は、始めより何等罪あるものでなく、むしろ身をもって国事に殉じたる義人とも申スべきで、これを殺してその生命を奪うことは、人類の最高意識に反している。只一時戦闘力を失わすればそれで沢山、その人の骨まで焼尽くすというに至っては、下等動物より以下の妄昧残虐性を暴露したもので、かかる意味での科学の進歩は、即ち野蛮の逆転に過ぎず。そんな文化はむしろ人間世界の恥辱で厶(ござ)ル 狂言『科学戦争』昭和10年 死刑を廃止せよ、ということは法律上の議論でなくて、法律以上の人生道義感から来るもので。世に殺人が公認されない如く、国家も人を殺してはならぬ、ということを原則とする。せっかく世に生まれ出たものを、国家としてこれを殺すということは、天然理法に対する一種の反逆であって、国家の聡明量から照し、又その恩恵量から見て、不合理かつ拙劣な断獄であるというのだ。およそ人を殺すことの公認されるのは国家の戦闘行為ばかりである。しかしこれも第二義であって、純理ではない。死刑は極刑を意味する。しかし死刑には悔悟の余地が残されない。極刑は殺さずともいくらでも課し得る。しかして悔悟の余地が与えられる。罪を憎んで人を憎まずと、けだし国家司直の精神である。 『大日本』昭和7年1月10日
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