戦争後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
第一次マイソール戦争終結後、ハイダル・アリーは再び北へと軍を進めたため、マラーター王国と衝突するところとなった。 1770年1月、ハイダル・アリーを征討するためにマラーター軍がマイソール王国に侵入し、1771年3月に首都シュリーランガパトナを包囲されるなど窮地に立たされた。だが、宰相マーダヴ・ラーオの病状悪化もあり、1772年6月に和睦が成立した。 同年11月、かねてから病状の悪化していたマラーター王国宰相マーダヴ・ラーオが死に、それ以降宰相位をめぐってマラーター王国が混乱すると、ハイダル・アリーは対外遠征を再開した。デカン高原南部のマラーター王国の領土に侵攻して、1776年3月15日にはマラーター諸侯ゴールパデー家の拠点グッティ(英語版)を占拠した。 また、ゴールパデー家の領土ダッタワードやガジェーンドラガドなどには、マイソール側の知事としてファテー・アリー・ハーンが任命された。これにより、マラーター王国の財務大臣ナーナー・ファドナヴィースは兵を派遣し、マイソール側と全面的に争った。 だが、1777年1月8日にマイソール側がダーラヴァーダ付近の会戦でマラーター軍に勝利するなど、マラーター側は分が悪かった。そのうえ、1778年3月に第一次マラーター戦争中にイギリスがラグナート・ラーオに援軍を送ると、ナーナー・ファドナヴィースは兵を引き返した。 これにより、ハイダル・アリーはカルナータカ地方の制圧に乗り出し、1779年3月にチトラドゥルガ・ナーヤカ朝を、5月27日 にカダパのナワーブを滅ぼし、更なる領土を獲得した。 また、1774年にマイソール王国はケーララ地方のコーチン王国とトラヴァンコール王国に家臣として貢ぐように勧め、1776年8月までにコーチン王国の北部を占領するなど、1770年代を通してマラバール側にもマイソール王国の領土を拡大した。 ハイダル・アリーはその間、トルコのオスマン帝国、イランのザンド朝、アラビア半島のオマーンなどと使節を交わしている。このことから、ハイダル・アリーがとても外交手腕に優れた人物だったことがわかる。
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