再定住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 21:16 UTC 版)
「en:Repatriation of Poles (1944–1946)」を参照 1939年のドイツの国勢調査によると、後にポーランドの回復領となった地域には、最も東に分布するドイツ国内の少数民族だったポーランド系住民も合わせて、885.5万人であった。ドイツの国勢調査ではポーランド語話者の数を、多言語話者を含めて70万人未満としているが、 ポーランドの人口学者たちは、旧ドイツ領におけるポーランド人の実際の数は120万人ないし130万人に達していたと推計している。120万人としている推計によれば、そのうち、およそ85万人が上シレジア地方、およそ35万人が東プロイセン南部に住んでおり、その他の地域を合わせて、さらに5万人程度が他の地域に広がっていたとされている。 ポーランド国内の各地からやって来た人々は、たちまちドイツ系住民の穴を埋め、追放と平行して転入が進行した。入植者の第一陣は、1945年3月にはすでに到来していたという。彼らは、まだ赤軍が展開している時点から、戦前の国境に近いところで、放棄された農場や村落に入り込んでそれを手に入れていた。入植者に加え、他のポーランド人たちもやって来て略奪行為に加担し、すぐさま同様の事態が旧ドイツ領全域に広がった。1945年3月30日、「グダニスク県」が設置され、回復領では最初の、ポーランドの地方行政体が成立した。ドイツ人たちが次々と収容され、追放されていく中で、500万人近い入植者たちが、あるいはこの地域に引き寄せられて、あるいは強制されて、1945年から1950年の間にやって来たということになる。さらに、110.4万人の旧ドイツ領時代からの住民(うち85.1万人は上シレジア)が、ポーランド国籍を認められて残留を許された。この結果、回復領におけるポーランド人の人口は、1950年には 5,894,600人に達した。入植者たちは背景の違いによって以下のような集団に分けて捉えることができる。 ポーランド中部から、自由意志によって移動してきた入植者(多数派)。 ナチス・ドイツの強制労働から解放されたポーランド人(最大で200万人)。 いわゆる「本国送還者」: ソ連に併合された旧ポーランド領から追放されたポーランド人で、新たに西部国境地帯に入植することを選んだ者。当地では人口の26%を占めたともされる(最大で200万人)。 1947年のヴィスワ作戦で移住を強制された非ポーランド人。ポーランド政府のこの作戦は、東方への追放を免れてポーランド南東部に留まっていたウクライナ人多数に移住を強制し、新たに獲得した領土の各地に分散させて、最終的にはポーランド人と同化させることを狙ったものであった。 ビャウィストク周辺地域に住んでいたベラルーシ人も、同様の理由で、旧ドイツ領地域へ移住するよう圧力をかけられていた。 このように非ポーランド人を各地に分散させるという政策は、ポーランド当局が、ウクライナ人、ベラルーシ人、レムコ人などに対して、独自の民族アイデンティティを解体し、強固なコミュニティを形成させないために同族の交流を困難にすることを目的として行ったものであった 数万人のユダヤ人ホロコースト生存者。その大部分は東方からの「本国送還者」(en:Repatriation of Poles)で、ほとんどが下シレジアに定住し、ユダヤ系の企業や各種組織を興した。ヴロツワフ(ドルヌィ・シロンスク県)、シュチェチン(西ポモージェ県)、ヴァウブジフ(ドルヌィ・シロンスク県)には、大規模なコミュニティがあった。しかし、大多数のユダヤ人は、1968年に当時の共産主義政権が糸を引く大規模な反ユダヤ人運動が起こった時期 (en:Polish_1968_political_crisis#Antisemitic_purges) に国外へ去った。 当時、ポーランドやソ連の新聞や役人は、ポーランド人に「チャンスにめぐまれた土地」である西方へ移住するよう奨励していた。こうした新しい領土は、逃亡したドイツ人たちが放棄した贅沢な邸宅が、勇敢なる入植者を待っている、とか、家具付きの家と仕事が手に入る、という風に表現されていた。しかし実際には、これらの地域は戦争によって荒廃しており、インフラストラクチャーはほとんど破壊され、高い犯罪率と略奪行為の横行に悩まされていた。治安が回復されるまでには、何年もの時間が必要だった。 1970年、西部・北部領土における人口が、はじめて戦前の水準に並んだ(1970年 - 8,711,900人: 1939年 - 8,855,000人)。同年には、ポーランドの他の地域の人口も戦前の水準に達した(1970年 - 23,930,100人: 1939年 - 23,483,000人)。 西部・北部領土に残留するドイツ系住民数の推計値は様々なものがあるが、戦後の追放の後にもドイツ系住民の脱出が続いていたことははっきりしている。1956年から1985年までの間、シレジア出身者40.7万人、ヴァルミア・マズールィ県出身者およそ10万人が、ドイツ国籍を獲得してドイツへと出国した。 今日では、西部・北部領土の人口のほとんどはポーランド人であるが、小さなドイツ系住民の小集団も、オルシュティン、マズールィ地方(いずれもヴァルミア=マズールィ県)、上シレジアの特にオポーレ県などの少数の場所に存在している。
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