ピナトゥボ山の噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 07:46 UTC 版)
アエタ族はピナトゥボ山中で移動焼畑農耕と狩猟採集によって自給自足する、外部との接触の少ない人々だった。しかし、1991年に発生した噴火によって、アエタの人々は罹災してしまう。 詳細は「ピナトゥボ山#1991年の噴火」を参照 噴火による直接の犠牲者は退去勧告を拒んで山に残った103名だが、外界の病気への免疫を持たないアエタの人々は、劣悪な避難キャンプでの生活によって肉体的・精神的に消耗したところにインフルエンザや麻疹、肺炎が流行し、その後の半年間で1000名あまりの死者を出した。 その後、政府によって平地民の町並みを模したアエタ族の再定住地が急造されたが、農業に不適な場所で耕作地も少なかった。アエタ族は政府に対して代替地として、元々の父祖の地であるクラーク空軍基地とスービック海軍基地の跡地の返還を要求したが、容れられることは無かった。噴火から2 - 3年後に多くの生活再建プログラムが終了すると、アエタ族は火山灰で荒れ果てたピナトゥボ山へ戻る者、再定住地に残り平地農民を手伝う賃金労働者になる者、独自の開墾地を開拓する者など、いくつかのグループに分散して居場所を確保している。
※この「ピナトゥボ山の噴火」の解説は、「アエタ族」の解説の一部です。
「ピナトゥボ山の噴火」を含む「アエタ族」の記事については、「アエタ族」の概要を参照ください。
- ピナトゥボ山の噴火のページへのリンク