ピナクル峰と最高点到達記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:10 UTC 版)
「ファニー・ブロック・ワークマン」の記事における「ピナクル峰と最高点到達記録」の解説
1906年、ファニーは47歳で、標高20,278フィート (6,181 m) から、標高22,735フィート (6,930 m)(彼女は23,263フィート (7,091 m) だと信じていた)のピナクル峰に登頂した。これは西ヒマラヤのヌン・クン山塊に属する山だった。彼女の登山にとって最大級の成功となった。イッサーマンとウィーバーが指摘しているように、彼女が「現代的な装備の恩恵も無く、その嵩張るスカートに邪魔されながら自力で山に登ったという事実は、彼女の能力と決意を物語っている」となる。ファニーが打ち立てた最高点到達記録は、1934年、ヘッティ・ダイレンファースがシア・カングリ(標高23,861フィート、7,442 m)に登った時に破られた。このときファニーとウィリアムはどちらも23,000フィート (7,000 m) 以上まで昇ったと信じており、自分たちを高高度にまで昇る指導的な専門家であると見なしていた。 ファニーはピナクル峰の高さについて、特にアニー・スミス・ペックなど異議を唱える者全てに対して活発に弁護を続けた。1908年、ペックはペルーのワスカラン山に登り、それが標高23,000フィート (7,000 m) 以上だと信じて新記録を主張した。しかし、ペックはこの山の高さについて誤った情報を得ており、計測できなかった距離を誇大に言っていた。ファニーは大変負けず嫌いだったので、サービス・ジオグラフィック・ド・ラルメーからフランス人測量士のチームを13,000ドルで雇い、ワスカラン山の高さを測らせ、それが実際には22,205フィート (6,768 m) であることを突き止めた。ファニーの記録が最高点到達記録であることを確認した。ポーリーは、「皮肉なことに、高い地位にある男性と彼女が同等であることを証明するという決意が、彼女を越えようとするアメリカ女性を萎ませる攻撃で頂点に達した」と説明している。ファニーは最善の女性であろうと決断しており、細部に拘る記録保持者でもあったので、その成果を証明することができた。ポーリーは、「ファニー・ワークマンが当時は男性のスポーツであったもので、優秀であろうとしたフェミニストとしての決断に値する認知を得ていたならば、彼女が到達した高度と同じぐらい正確な記録保持者に固執することで、記憶されたに違いない」と結論付けている。
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