共産党の機関紙
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ニザンは次いでジェール県オーシュ(オクシタニー地域圏)のリセの哲学教員に任命されたが、休暇を取ってパリに戻り、党活動と執筆活動に専念した。党内ではガブリエル・ペリ(フランス語版)が編集を担当していた『リュマニテ』紙の国際政治欄に寄稿した。同紙では、1930年の国際革命作家同盟(UIER)のハリコフ会議を機に、シュルレアリスム運動から離れて社会主義リアリズムに転じたアラゴンが報道記事を担当していた。さらに国際革命作家同盟のフランス支部として1932年3月に結成された革命作家芸術家協会(AEAR)に参加し(結成時の会員は作家80人、芸術家120人、うち共産党員が36人)、翌1933年7月に創刊された文芸雑誌『コミューン』の編集事務局をアラゴンと共同で務めた。編集委員はバルビュス、ジッド、ロマン・ロラン、ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ(フランス語版)であった。ヴァイヤン=クーチュリエは国際革命作家同盟の機関誌『国際文学』のフランス語版の編集長も務めており、アラゴンとニザンはそれぞれ特定の号の編集を担当した。 1933年に最初の小説『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表した。上述のように、労働者階級から勤労によって小ブルジョワの地位を築いた父の人生をモデルにした小説であり、第二帝政下のフランスにおける資本主義の台頭をマルクス主義の観点から分析し、産業化・都市化の過程で疎外され、破滅していく人間を描いている。この処女作は早くもゴンクール賞候補作に選出された。
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