共産党への入党
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「ヨハネス・R・ベッヒャー」の記事における「共産党への入党」の解説
ベッヒャーが共産党に舞い戻ったのは、1923年である。アメリカの富豪である画家の娘のエーファ・ヘルマン(Eva Herrmann)と別れた後、再び支配的な父親像への反感が彼に芽生えた。彼女の父フランク・ヘルマンは、ベッヒャーとの結婚を許さなかったからであるが、同時にそのとき、裕福で教養のあるブルジョワへの反感も覚えた。さらに1923年のハイパーインフレは、彼が左翼へと方向転換するきっかけになった。放浪生活のあと、最終的にベルリンに引越し、ロベルト・ムージルやリオン・フォイヒトヴァンガーなどの左翼的知識人と交際する。1923年3月に、再び共産党員になり、自分の生活に構造があることを知るのが楽しくなった。「かつての自分のだらしなさには、身の毛がよだつ思いである。なんとかこの道を見つけ出したことは、本当に、本当に嬉しい」。文学と政治を分けて考えることが彼にとって難しくなればなるほど、ますます彼はもはや何も望まなくなった。 彼のブルジョワ的な教養と、日和見主義的な態度のような礼儀作法は、結局のところ党内部では出世の道を切り開くことになった。彼が頭角をあらわすことになったのは、激動の歴史状況、ヴァイマル共和国での共産党の政治的方針転換であった。当初は、詩作から離れて社会問題を解決しようと考えていたものの、党からの依頼を受けて『レーニンの墓で(Am Grabe Lenins)』のような詩や記事を書き、党の詩人として急速に存在感を増していった。芸術の課題は、「全てのブルジョワ的思考と存在形式を暴露し、脱構築すること」にあると考えるようになった。共産主義者の文化政策は、最初から崩壊していた。レフ・トロツキーによれば、プロレタリア芸術は、まず資本主義を克服してから可能になるということだが、それはドイツではまだ遠かった。ベッヒャーは、ここに、「芸術を全政党の模範にしたがって、ボルシェビキ化する」チャンスを見出すことになった。 ベッヒャーは共産党の新党首ルート・フィッシャーと、党の報道官であったゲルハルト・アイスラー(ドイツ語版)にも接近し、その妻ヘーデ・アイスラー(Hede Eisler)とも知り合って、共産党の中央委員会に入ったが、ルツ・フィッシャーの失脚後に、彼はその支持者として苦境に立たされたため、彼を見限り、ちょうどいいタイミングで、「ソ連に敵対的なトロキズム的態度」を認めた。共産党内部で抗争を繰り広げるだけでなく、ヴァイマル司法当局とも闘争しており、社会民主主義の政権交代が行われるまで、共産党は非常に多くの訴訟を抱えていた。ヨハネス・R・ベッヒャーも、5日間に及ぶ拘留のあとに落ち着きを取り戻し、彼にかけられた国家反逆罪は撤回となった。 ベッヒャーのような共産主義者に限らず多くの人も、ソ連が産業を際限なく成長させているように思えたので、「父スターリン」の産業政策・社会政策を支持し、そこに未来を見ていた。まだベッヒャーに対する捜査が続いているあいだに、彼はロシア革命10周年記念のソ連に初めて旅行したが、そこでの視察プログラムでは、大きな社会問題へと注意は向けられなかった。ロシアで培った理念は、いかに詩が「階級に自覚的なプロレタリア」をもたらすのかということであった。集会では、一緒に詩が読まれたり、シュプレヒコールとして挙げられたりした。1928年、プロレタリア的・革命的作家連盟が結成され、ベッヒャーはその議長になったが、日常業務には全く関わろうとはせず、自分の地位に相応しくない活動には殆ど興味を示さなかった。彼にとっては、連盟の議長として、「クレムリンの脈」に居続けることには特別な意味があった。党首のエルンスト・テールマンが多くの方針転換をしたことで、絶え間ない綱渡り状態になった。連盟の方針をめぐる闘争は、例えばアルフレート・デーブリーンやクルト・トゥホルスキー、ベルトルト・ブレヒトのような左翼ブルジョワ的でリベラルな作家が問題の中心であった。彼らは何度もきつく批判され、「ブルジョワ作家を味方に付け、我々を阻害するな!」というコミンテルンの命令を受け取った。方針転換をベッヒャーはいつも完全に成功させたというわけではなく、彼も1930年には4ヶ月、党中央から追放された。この時彼は、ベルリンを最終的に見限ることを確信した。どのくらいベッヒャーの上層部に対する盲従がどの程度であったかは、産業政党に対する公開裁判時の彼のコメントに現れている。「我々、プロレタリア詩人は、……世界の最初のプロレタリア国家であるソ連が有害な人間や破壊工作員を根絶しようという意志を歓迎する」。 1929年のブラック・フライデーによって、「最大の敵である資本主義」は崩壊した。世界金融恐慌でうまい汁を吸ったのは、ナチスとドイツ共産党であり、支持者が極めて増加したことを喜ぶことができた。1930年9月の総選挙で、ナチスはドイツ社会民主党に次いで二番目に大きな政党になったにもかかわらず、テールマン体制化の共産党では、これまでと同様に敵は「社会ファシズム」である社会民主党であるということになっていたため、共産党はナチスの権力掌握に対する準備ができていなかった。共産党幹部であったベッヒャーは、すでに長いあいだ突撃隊のブラックリストに載せられていたため、偽造パスポートで1933年3月にチェコスロバキアへと脱出し、そこで妻のロッテと息子のハンス・トーマスが待った。夫婦生活は長いあいだ壊れていて、妻ロッテは息子とイギリスに引っ越していたため、最初にして最後の再会を果たしたのは、1950年12月になってからであった。
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