共産党への入党とは? わかりやすく解説

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共産党への入党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:58 UTC 版)

ヨハネス・R・ベッヒャー」の記事における「共産党への入党」の解説

ベッヒャー共産党舞い戻ったのは、1923年である。アメリカ富豪である画家の娘のエーファ・ヘルマン(Eva Herrmann)と別れた後、再び支配的な父親像への反感彼に芽生えた。彼女の父フランク・ヘルマンは、ベッヒャーとの結婚を許さなかったからであるが、同時にそのとき裕福教養のあるブルジョワへの反感覚えた。さらに1923年ハイパーインフレは、彼が左翼へと方向転換するきっかけになった放浪生活のあと、最終的にベルリン引越しロベルト・ムージルリオン・フォイヒトヴァンガーなどの左翼的知識人交際する1923年3月に、再び共産党員になり、自分の生活に構造があることを知るのが楽しくなった。「かつての自分だらしなさには、身の毛がよだつ思いである。なんとかこの道をつけ出したことは、本当に本当に嬉しい」。文学政治分けて考えることが彼にとって難しくなればなるほど、ますます彼はもはや何も望まなくなった彼のブルジョワ的な教養と、日和見主義的な態度のような礼儀作法は、結局のところ党内部では出世の道切り開くことになった。彼が頭角をあらわすことになったのは、激動歴史状況ヴァイマル共和国での共産党政治的方針転換であった当初は、詩作から離れて社会問題解決しよう考えていたものの、党からの依頼受けてレーニンの墓で(Am Grabe Lenins)』のような詩や記事書き、党の詩人として急速に存在感増していった。芸術課題は、「全てのブルジョワ思考存在形式暴露し脱構築すること」にあると考えようになった共産主義者文化政策は、最初から崩壊していた。レフ・トロツキーによればプロレタリア芸術は、まず資本主義克服してから可能になるということだが、それはドイツではまだ遠かったベッヒャーは、ここに、「芸術を全政党模範にしたがってボルシェビキ化するチャンス見出すことになったベッヒャー共産党新党ルート・フィッシャーと、党の報道官であったゲルハルト・アイスラー(ドイツ語版)にも接近し、その妻ヘーデ・アイスラー(Hede Eisler)とも知り合って共産党中央委員会入ったが、ルツ・フィッシャーの失脚後に、彼はその支持者として苦境に立たされたため、彼を見限りちょうどいいタイミングで、「ソ連敵対的なトロキズム的態度」を認めた共産党内部抗争繰り広げるだけでなく、ヴァイマル司法当局とも闘争しており、社会民主主義政権交代が行われるまで、共産党は非常に多く訴訟抱えていた。ヨハネス・R・ベッヒャーも、5日間に及ぶ拘留のあとに落ち着き取り戻し彼にかけられ国家反逆罪撤回となったベッヒャーのような共産主義者限らず多くの人も、ソ連産業際限なく成長させているように思えたので、「父スターリン」の産業政策社会政策支持し、そこに未来を見ていた。まだベッヒャー対す捜査続いているあいだに、彼はロシア革命10周年記念ソ連初め旅行したが、そこでの視察プログラムでは、大きな社会問題へと注意向けられなかった。ロシア培った理念は、いかに詩が「階級自覚的プロレタリア」をもたらすのかということであった集会では、一緒に詩が読まれたり、シュプレヒコールとして挙げられたりした。1928年プロレタリア的・革命的作家連盟結成されベッヒャーはその議長になったが、日常業務には全く関わろうとはせず、自分地位相応しくない活動には殆ど興味を示さなかった。彼にとっては、連盟議長として、「クレムリンの脈」に居続けることには特別な意味があった。党首エルンスト・テールマン多く方針転換をしたことで、絶え間ない綱渡り状態になった連盟方針をめぐる闘争は、例えアルフレート・デーブリーンクルト・トゥホルスキーベルトルト・ブレヒトのような左翼ブルジョワ的でリベラルな作家問題中心であった。彼らは何度もきつく批判され、「ブルジョワ作家味方に付け、我々を阻害するな!」というコミンテルン命令受け取った方針転換ベッヒャーはいつも完全に成功させたというわけではなく、彼も1930年には4ヶ月党中央から追放された。この時彼は、ベルリン最終的に見限ることを確信したどのくらいベッヒャーの上層部に対す盲従がどの程度であったかは、産業政党対す公開裁判時の彼のコメント現れている。「我々、プロレタリア詩人は、……世界最初プロレタリア国家であるソ連有害な人間破壊工作員を根絶しようという意志歓迎する」。 1929年ブラック・フライデーによって、「最大の敵である資本主義」は崩壊した世界金融恐慌うまい汁吸ったのは、ナチスドイツ共産党であり、支持者極めて増加したことを喜ぶことができた。1930年9月総選挙で、ナチスドイツ社会民主党次いで二番目大きな政党になったにもかかわらず、テールマン体制化の共産党では、これまで同様に敵は「社会ファシズム」である社会民主党であるということになっていたため、共産党ナチス権力掌握対す準備ができていなかった。共産党幹部であったベッヒャーは、すでに長いあいだ突撃隊ブラックリスト載せられていたため、偽造パスポート1933年3月チェコスロバキアへ脱出し、そこで妻のロッテと息子のハンス・トーマスが待った夫婦生活長いあいだ壊れていて、妻ロッテ息子イギリス引っ越していたため、最初にして最後再会果たしたのは、1950年12月になってからであった

※この「共産党への入党」の解説は、「ヨハネス・R・ベッヒャー」の解説の一部です。
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