KGB時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:05 UTC 版)
「ウラジーミル・プーチン」の記事における「KGB時代」の解説
やがてプーチンは小説や映画で、特に日仏合作の映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』を見てスパイに憧れを抱いたとされる。ソ連国家保安委員会(KGB)への就職を考え、14歳の9年生(日本の中学3年生に相当する)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、レニングラード大学では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年次にKGBからのリクルートを受け、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職する。KGB職員であるためにはソビエト連邦共産党への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になっている。 KGBでは最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される。さらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年に東ドイツのドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、NATOをはじめとした政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている。その際にはKGBと協力関係にあった東ドイツの情報機関・秘密警察である国家保安省(シュタージ)職員の身分証明書も持っていたことが2018年に明らかになっている。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務した。この頃に大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。
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