共産党の攻勢計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 14:40 UTC 版)
八路軍総司令官朱徳は、1940年7月、延安で開かれた会議で、華北での戦闘について、過去3年間に培った基礎をもってすれば最終的には日本軍を一掃できるなどと報告した。このような過激な主張の背景としては、上述のように国民党政権が動揺していたことから対日戦意の高揚を図ったことや、国民党政権軍に対する八路軍の戦力誇示の意図があったと推測されている。 朱徳と副総司令官彭徳懐は、同月、百団大戦について準備命令を発した。参加兵力は最低でも22個団とされ、石太線(山西省太原-河北省石家荘間)、同蒲線(zh, 大同-風陵渡間)、平漢線(北京-漢口間)津浦線(天津-浦口間)、北寧線(北京-瀋陽間)の各鉄道設備がそれぞれ攻撃目標とされた。最重要目標は、中国共産党の本拠地である延安と華北を結ぶ石太線である。また山西省の井徑炭坑などの鉱山も攻撃目標とされた。これを受けて八路軍晋察冀軍区の第120師(zh)と第129師(zh)その他が投入されることになった。
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